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2025/02/09 06:08 |
主人公の鈍感さと世界のリセットは、ギャルゲの必須要件[TH2AD]
 『To Heart2 Another Days(以下、AD)』をやってるのですが、(´・ω・`)? みたいな感じになってきました。キャラクターは変わらずに魅力的なのに、なんでこんなに居心地が悪いんだろう、というのを考えてみました。

●確定した別々の平行世界をひとつにぶちまけた弊害
 ギャルゲというものは、魅力的な女子を中心とした心地よい友人関係を構築して、どうやらみんな俺のことが好きらしい、でも鈍感な俺は気づかずその中からフラグ構築した子ときゃっきゃうふふするぜ、という構造が基本なわけです。複数プレイで別々の人生を歩むことで、それぞれのプレイの時間の流れの中では、主人公は対象のヒロイン一筋で誠実なわけです。「潜在的にハーレムであっても、各ルートでの本命は基本一人(一組)」「その対象はプレイヤーの主体的な選択によって決定される」事が肝なんですね。だから前作で、強制的にルートに介入してくる黄色ちゃんは評判がいまいちなのだと思います。

 ところが、ADのベースになっているのは、貴明が「誰も選ばなかった未来」です。しかし、各ヒロインは、貴明が選ばなければ、解決されなかったはずの諸問題を乗り越えているように見えます。そして、にも関わらず、主人公と結ばれる、主人公との恋愛の過程というものだけがきれいに消失しているのです。“一旦結末を迎えた物語を、リセットせずにやり直す”という難題が生み出したゆがみですね。

 この、世界をひとつにぶちまけたゆがみは、他の部分も侵食しています。初期のギャルゲーとは違い、最近の作品に求められる要素として、「心地よい日常・友人関係」というものがあります。男の友人はみんないい奴で、魅力的な女の子はみんな俺に好意を持ってるが、鈍感な俺は気づかない。文化祭・体育祭・生徒会などで思わぬ重責を背負わされるが、みんなの協力で成し遂げることで一目置かれちゃう俺。そんな具合に、恋愛だけに留まらない、トータルな理想的青春時代を追体験するのが昨今のギャルゲーの王道なわけです。

 ところが、ADの世界では、貴明くんが世界のモテキングであることを、自他共に認めてしまっています。その上でみんなにいい顔をして、しかも誰とも付き合わないというスタンス。こんな奴、嫌われますよ。作中ではことあるごとにクラスメイトにそれをいじられる程度ですが。こうした「心地よい世界の破綻」はあちこちに見られて、幼馴染を起こしに行ったら若くて綺麗なお母さんが出迎えてくれて、という理想的なお隣さんだった柚原家で、プレイヤーがなんの関与も心の準備もしていないタイミングで、唐突に主人公が春夏さんを異性として強烈に意識し始めても、困惑するしかないのです。僕はお隣で春夏さんの作るご飯をうめぇうめぇと食べて、春夏さんはそれをにこにこしながら見ていてくれればそれで満足なんです。

 序盤で出てくるキャラクター、出てくるキャラクターが主人公にボディコンタクトをしてくるのも、サービスを意図しているのでしょうが逆効果な気がします。ADのヒロインたちは本編の脇キャラクターですから、主人公に対して好意を持っていても、決して一線を越えることはありませんでした。そのキャラクターたちが一斉に性的な方向からアプローチしてくるってのは、正直嬉しいよりもなんか引いてしまいます。タマ姉やこのみ、いいんちょ、雄二との快適なモラトリアムの世界にとって、がんがん踏み込んでくる彼女たちは世界の均衡を崩す異物なのです。あげく、貴明自身の台詞で、タマ姉、このみ、雄二との世界を閉塞した状態として否定するコメントまで出て来るのですから、違和感はやはりぬぐえません。

 前作での草壁さんルートは、他との整合性を崩さず独自ルートへと進んでいました。もっとうまいやり方はなかったのかな……という気がしますね。少なくとも、共通ルートは顔合わせに留めて、各ルート分岐後の接触を個別に充実させる形なら、違和感ははるかに少なかったはずです。フルコンプしたら印象が変わることを願ってますが、「TH2」本編の時間を過ごしたあとの貴明が、ヒロインたちを選ばず、他の子に行く時点で違和感は残るでしょうね。うーん、僕はToHeart1では「綾香、セリオ、シンディ宮内がいい」と初期から口走っていた、自他共に認める脇キャラ好きなんですが、それでもこう感じるんですね。そういえば『ときめきメモリアル』でも、伊集院家の設定の不整合なんか問題になりました。完結した作品の続編というのは、いつだって難しいものです。

おまけ あとイルファさんのメモリは壊れてしまったんでしょうか。ライター違うのかな。
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2008/03/03 09:27 | Comments(3) | TrackBack() | 雑記(ゲーム系)
任天堂の憂鬱Ⅰ
 年末商戦を終えて、据え置きハードに関しては、大きな動きはなさそうです。北米ではWiiとXbox 360の二強、国内では独走するWiiをPS3が追いかける……という構図に目に見える変化はありません。一方、携帯ゲーム分野には大きな動きがありました。新型発売に伴う、PSPの大躍進です。600万~700万台とも言われる国内PSP市場。2000万台を越えているDS市場と比べて「負けている」という表現が多かったPSPですが、現在は「第二位の市場を確保した」というのが正しいでしょう。プレイステーション全盛時代も、任天堂がハードごとの営業黒字を保っていたように、PSPもまた、「負けずに踏みとどまる」だけの市場を確保したといっていいでしょう。

 少なくとも、オタク業界に身を置いている人なら、2007年、特にその後半に、PSPがそのプレゼンスを増していることを否定する人はいないでしょう。久夛良木前SCE会長の独特の感性に基づく発言に対する反感もあり、オタク界では「親任天堂、反ソニー」的感情がかなり大きな勢力を持っていました。実際、僕も「どのハードメーカーを応援する?」と問われれば、セガ無き今は任天堂を推していました。しかし、DSとWiiが主流の世の中になって、ふと気がついたのです。「僕は任天堂を好きだが、任天堂は自分を見てゲームを作っていない」ということに。任天堂頑張れというスタンスはとっていたものの、じゃあ実際に僕が買った次世代機は何かといえばXbox 360なのです(流石に、DSはないと仕事にならないので持ってますが)。

 DSがユーザー層を広げた結果、グラフィックやボイスを求めるユーザーはいなくなってしまったのでしょうか? そんなことはありません。僕らは「グラフィックを追求する姿勢」を否定したのではなく、「60000円のゲーム機」をひとまず見送ったのです。値下げしてもユーザーは動かないではないか、という向きもあるかもしれませんが、一旦負けハードの印象がついたゲーム機にユーザーが冷淡なのは、前世紀から変わりません。スクウェア・エニックスが重すぎる腰を上げるまでは、ユーザーに大きな動きはないと思います。そんな中、グラフィックやボイスだって求める既存のゲーマーたち、そして「Wii的な」ゲーム作りにはやや馴染まないメーカーが参集しつつあるのが、今のPSPだと思います。

 技術屋であるところの久夛良木前会長は、PSPがDSに勝利することを、本気で疑っていなかったと思います。当然です、タッチパネル以外のほぼ全てのハードウェア的な機能で、PSPはDSの上を行っているのですから。ですが実際にはDSは爆発的なシェアを握り、PSPは一旦、負けハードとしてポジションに陥りかけました。これは結局のところ、ハード開発に注力するあまり、ソフトウェア面に関しては「PS2と同じことがPSPでもできる」以上の何かを提示できなかったことが原因だと思います。しかしここに来て、PSPが再浮上してきたのは、ユーザーからの「確かにグラフィックばっかりで中身がスカスカのゲームは困るけど、グラフィックやボイスだって俺たちはほしいんだよ」という声無きメッセージだと思います。

 ここで視点を入れ替えて、任天堂の側から見てみましょう。一人勝ちとも言われる任天堂ハードの強みは何かと考えれば、「圧倒的なシェア」と、「自らが最強のソフトメーカーである任天堂が供給するソフトウェア」だと思います。では、弱点……いえ、制約とはなんでしょうか? それは、「DSが手に入れてしまった圧倒的なシェアそのもの」だというのが、僕の考えです。

 前述したとおり、DSは「シェアや任天堂のソフトウェア、ブランド」を抜きに考えると、PSPよりは性能面で一歩劣るハードです。それでは任天堂が、性能を向上した携帯ハードを出せないのか……と考えると、答は「技術的にはいつだって出せる」だと思います。しかし、実際には出せない。それは、DSがあまりにも普及した、国民機になってしまったからです。かつて、任天堂はファミコンで一世を風靡しました。その次世代、スーパーファミコンでもゲーム界を制覇しました。しかし、その次は? 結果は皆さんご存知の通りです。DSブームというのはこれまで誰も経験のしたことのないユーザー層を相手にしたヒットであり、たとえばより性能が上の「DS2」や「GBA2」を市場投入して、それに現在のユーザーがついてくる保障はどこにもないのです。ですから、任天堂にとっての最適戦略は、可能な限り現在のDS市場を引き伸ばすこと。そのためには、「美麗なグラフィックはゲーム性とは関係ない」と言わざるを得ないのではないでしょうか。

 現在の市場を引き継いだまま、上位機に移行できるなら、任天堂だって喜んでするはずです。しかし、そこには小さくとも、転落の可能性があります。そして、任天堂には、未だかつての転落の記憶の爪痕が、はっきりと残っているでしょう。どれだけ支配的なシェアをとったハードでも、いずれ最前線を走れなくなるのは、プレイステーション2の現状を見ても明らかです。しかし、いよいよもう保たない、という時が来るまでは、任天堂は「ええ、まったく問題ありませんが何か?」とニコニコしながら、創意工夫を搾り出して、新しいソフトを供給し続けるでしょう。それは、決して楽でも安泰なことでもないでしょう。今後には、知育ソフトで入ってきたユーザーを、ゲーマーとして定着させるという難事業が待っているのですから。

 他方、日本のゲーム業界の競争力という視点で見れば、現状はあまりよろしくないと思います。任天堂はDSとWiiというミドルクラスのハードで頑張り、任天堂に乗り切れないメーカーは、PSPとPS2で時間稼ぎをしている状況です。しかし、こうした「足踏み」の間に、米国ではPCゲームとXbox 360を中心としたハイスペックな次世代ゲームの技術的蓄積が進んでいます。現状は「欧米的な技術力」と「日本(任天堂)の発想力」という形でなんとか勝負が出来ています。アメリカ人の好むジャンルは偏ってますしね。しかし、5年後、10年後……はっと気がついたとき、彼我の戦力差は埋めがたいものになっているのではないか、という漠然とした不安があります。発想力は「個人のヘッドハンティング」で埋めることができますが、企業としての基礎開発力はそうはいかないからです。

 ならどうすればいいのか、という処方は、残念ながら出せません。正直、「どうしようもないんじゃないか」とも思います。ああほんと。Xbox 360がもうちょっと売れてくれればなぁ。

2008/01/04 23:42 | Comments(5) | TrackBack() | 雑記(ゲーム系)
ヤンデレ殺し
 2007年も末を迎え、今年一番流行した新属性といえば、ツレンデでもソレンデでもなく、ヤンデレだと思います。よっぴー、我妻由乃、壊れたまーちゃん、言葉様と枚挙に暇のないヤンデレさんたちですが、個人的な元祖ヤンデレヒロインは有馬@カレカノです。

 さて、一世を風靡したヤンデレですが、そもそも“ヤンデレ”という属性は何故生まれたのでしょうか。僕は、「登場するキャラクターが、何故かみんな俺のことを好きになる」という、ギャルゲ・エロゲの基本構造に端を発しているのではないか、と考えています。通常、好きな女の子、かわいい女の子が自分に好意を持ってくれるというのは、特別な、嬉しいシチュエーションです。しかし、世にあふれる“ギャルゲ的なもの”において、ヒロインが自分を好きになるということは、もはや極めて普通なことなのです。『狼と香辛料』では“どんなに楽しく、幸せな状況も、慣れると感性が鈍磨し、輝かしい時間は失われる”という事に対する不安と恐怖が描かれています。絶対的に都合のいい擬似恋愛を繰り返した結果、僕らは徐々に、不感症になっているのです。

 ですから、そこにスパイスとして、「全校生徒の憧れであり、自分の手が届かないはずの」相手や、「日頃何かと自分に突っかかってきたり、クールだったり」、「血や戸籍上の繋がりがあり、本来は許されない関係だったり」、「他の人のものだったり」、「相手は人間ではなかったり」といったハードルを設定し、そのハードルを乗り越える困難さ・達成感を、キャラクターから主人公に対する思慕に説得力を与える材料にしているのだと思います。しかし、そうした設定も繰り返されるにつれパターン化(王道化)し、やがては新鮮さと希求力を失っていきます。

 また、僕が好んでフレーズを引用する歌に天地無用の「恋愛の才能」があります。

“わかってるの キミの気持ち わたしだって同じたけど
「恋人」と 呼ばれたとき もうそれは恋じゃないのよ”

 基本的に少年漫画における恋愛の要素が全部詰まってる歌だと思うのですが、想いを伝えて、それが受け入れられた時点で、基本的にドラマとしての物語は完結してしまい、そこからは幸福な(つまらない)日常が繰り返されるだけなんですね。では、ヒロインがみんな主人公が好きなギャルゲーではどのようにこの問題に対処しているかといえば、「主人公は異常に鈍感」という解決法がとられ、プレイヤーにストレスを与え続けているわけです。そこに登場した新たな方法論が、“ヤンデレ”なのではないでしょうか。

 ヤンデレキャラクターの多くは、主人公に対して異様な執着と愛を持っています。しかし、行き過ぎた想いが、主人公にとって重かったり、主人公を拘束したり、主人公に身体的な害を与えたりするわけです。こうした主人公に対する負荷は、物語の種になります。ところが、“ヤンデレ”においては、プレイヤーにストレスを与えると同時に、「こんなに常軌を逸するほど、この娘は自分が好きなんだ」という、薄暗い満足を与えてくれるんですね。「彼女が俺のことを好き」の向こうにさらにドラマを用意しつつ、不感症気味のプレイヤーに対しても、愛されている実感を与えるという、コロンブスの卵的解決と言えるでしょう。それは、主人公をとりあえず好きになる類型的なキャラクター造型・物語に対するアンチテーゼでもあります。

 しかし、アンチテーゼとして、驚きと新鮮さを企図した筈の“ヤンデレ”は、今急速にその意味と、ポジションを解体されつつあります。見つけ出すのではなく、受容することを“萌え”の基本とする現代のオタク界においては、もはやヤンデレは「流行っているからとりあえず乗っかっておこう」という種類のものになりつつあります。ヤンデレが好みか以前に、「ヤンデレが好きと言っておけば、なんだかわかっているオタク風だし」的なね。結構オタク界ってのは「同調圧力」と「知識・趣味思考の階層意識」があって、流行っているものに乗っからないスタンスをとるのは、意外と怖く、抵抗があるんですね。

 趣味の共有や、“自分が好きなものを相手も気に入ってくれる”というのは、オタクに限らず嬉しいことです。しかし、僕らがヤンデレの素晴らしさを訴え、広めようとするほど、ヤンデレのもつ衝撃性は薄れ、後には“お約束”と“属性”という形に解体されたヤンデレが残る……というのが、2007年末の状況だと思います。語り手たちがヤンデレを愛すれば愛するほど、その素晴らしさを熱く語ってメジャーになるほど、裏道・変化球としての“ヤンデレ”はその意味を喪失していく……この、本来ポジティブな気持ちが、対象にとって皮肉にもマイナスに作用するって状況は、ある意味“ヤンデレ”的だなぁと思う次第です。

2007/12/26 13:46 | Comments(4) | TrackBack() | 雑記(ゲーム系)

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