アニメやゲームのコミカライズという作業は、本当に難しいものだと思います。コミック原作をアニメ化する場合と比べて、逆方向…アニメ作品のコミカライズには、どこか違和感がつきまとう事が多いです。原作のクオリティをほとんど損なわず、コミックとしての付加価値をつけた例としては、僕の場合はコミック版『真月譚月姫』などが思い浮かびます。が、それが稀有な例であることは間違いないと思います。
なぜ、アニメーションのコミック化は難しいのでしょうか。それは、まずメディアが持つ情報量の差があります。アニメーションやキャラクター性の強いゲームは、「映像(動画)」「音声」「音楽」といった、多彩な視覚・聴覚に与える情報を持っています。一方、コミックは誌面とコマのサイズに限定された単色静止画の視覚情報だけでそれを再現しなければいけません。さらに、他メディアからのコミック化は、月刊誌を媒体にすることが多いため、ページ数にもかなりの制限があります。その中で原作のストーリーを消化しつつ良さを出すためには、相当量の切り捨て・洗練によるシェイプアップが必要なわけです。小説の場合は、情景や心情の核になる部分をテキストで記述し、残りは読者の脳の中の想像で保管するという、場合によっては動画を超える処理が可能になりますから、コミック化というのはひょっとしたら、もっとも匙加減が難しい繊細な作業といえるかもしれません。
『アイドルマスター』という作品は、ファンの強い思い入れにもかかわらず、アニメ化には向かない作品だと僕は考えていました。いわゆるアイドルアニメが2000年以降ありふれているから……という理由ももちろんあるのですが、一番大きいのは、『アイドルマスター』には、幹となるストーリーがないからです。『アイドルマスター』に、一貫したストーリーはなく、唯一の例外は、Xbox360で登場した星井美希の裏ルートだけだと思われます。
アイマスにはちゃんと素晴らしいストーリーがある、と憤る方もいると思うのですが、アイマスにおいて固定で用意されているストーリーは「出会い」と各EDの「別れ、もしくは新たなるスタート」だけです。それ以外には無数の個別のエピソードとオーディションが散りばめられているだけで、どんなエピソードを経験して、どんなエンディングを迎えるのかは、プレイヤーに委ねられています。無数の選択、勝敗と、プレイヤーの思い入れ・スキルによって、2つとないアイドルの「人生」が紡がれていく。それが『アイドルマスター』の本質であり、その意味でアイマスに「決まったストーリーはない」のです。どれかひとつの道、キャラクターに焦点を当て、公式の道を示してしまったら、それはもう、『アイドルマスター』ではない。だから納得のできる形での原作のままのアニメ化は難しいだろう……と、僕は考えていました。
しかし、そこに意外な答を見出したのが、上田夢人さんの『アイドルマスターrelations』でした。プロデューサー(プレイヤー)一人一人に違った世界・人生があるから、アイマスに正解を出すことはできない。それなら、ある一人のプロデューサーの中にある世界を、そのまま提示すればいい。その人が作品に対する愛情と理解、相応の構成力を持っていれば、十分に観賞に耐える作品が出来上がる……そうして生まれたのが『アイドルマスターrelations』だと思うのです。
“客観表現”として、10人のアイドルたちをなるべく分け隔てなく扱おうとしたら、どうなるでしょうか。『アイドルマスター XENOGLOSSIA』の中にひとつの答があります。千早や雪歩が別陣営に行ったり、あずさがOGという立ち位置になったり。物語の構造上、ひとつの陣営で割り振れるパートが限られているのなら、他の役柄を与えて登場機会を確保しよう。端役をなるべく作らないことで、ファンの不満を軽減するひとつの処方です。これがいわゆるスターシステムのやり方で、『XENOGLOSSIA』のオリジナルキャラクターたちは、あくまでも脇役であることが宿命付けられています。一方、『アイドルマスターrelations』では、なんと覇王エンジェル(東豪寺麗華、朝比奈りん、三条ともみ)、佐野美心というオリジナルキャラを、主人公たちのライバル役という重要な位置に置いています。作品における役どころという意味では、あずささんよりも東豪寺の方が明らかにウェイトが上です。それなのに何故、読後、読者に不満が残らないのでしょうか。
それは、『アイドルマスターrelations』が、765プロの人間のつながり・関係性と、各キャラクターの性格・ありようの根っこにある部分を、絶対に守るべく考え抜いた痕跡が随所にあるからです。
まず、ストーリー性の強い作品にする場合、物語には主人公が必要です。現行のアイマスの場合、違和感なくセンターに立つことが許されるのは、おそらく春香か美希だけでしょう。最初に事務所で運命の少女として出会う? 春香はその初心者向けキャラクターとしての位置づけもあいまって、真ん中にいることが前提にありますし、Xbox360から登場した美希が「新人・後輩」として真ん中に来るのもまた自然です。いつだって主人公は最後にやってくるのが定番ですから。ただ、春香には「何色にも染まりやすいニュートラルな存在」という原点がありますから、キャラクターとしての濃度が若干弱い。主人公が美希になることは、ある意味必然なんですね。しかし、そこからが難しい。アイドルによって登場頻度や活躍に極端に差があることは、前述したとおり普通は抵抗があるものです。
しかしここで発想を、アーケードプロデューサーとしての原点(※上田さんはアケ版コアユーザーだから)に戻してみましょう。アイドルたちの過ごす人生、一緒に過ごした思い出は、ファーストプロデュースでのランクF引退と、ランクSで記録を残したユニットで価値が違うものでしょうか。場合によっては、新人アイドルとして去っていったあの子たちの方が、ずっと鮮烈に貴方の胸に残っていませんか。本当にキャラクターの人生を平等に愛するなら、どの程度ブレイクしているか、出番の多寡というのは、そう大きな問題ではないのです。自分の愛するキャラクターたちが、自分たちが知り、望むままにそこに息づいていてほしい。それが僕らの一番大きな望みではないでしょうか。それなら、あとは「彼女たちが一番輝く瞬間」を考えながら、立場のキャスティングを考えていけばいいのです。
やよいファンとして考えてみる。トップアイドルになったやよいが幸せになるのは素敵だ。でも、765プロのおそうじしながら、弟たちにもやしや特売品でおいしいもの食べさせようと工夫してるやよいの方が、やよいの「本質」にはより近いんじゃなかろうか。千早ファンの僕から見て、デレ期に入った千早は確かに魅力。でも、キャラクターとして一番美しいのは、内に脆さを抱えながら、歌だけを頼りに生きる孤高の少女の時なんじゃないかな、などなど。そうやって考えていくと、やよいや亜美真美がFランクで、千早がスーパーアイドルというのは単なる「適材適所」に思えてきます。真はダンスを教えてくれる先輩で、律子は補佐的ポジションの頼れるお姉さん。春香にはラジオ番組のパーソナリティという立ち位置が与えられています。それぞれのポジションは変わっています。しかし、それぞれのキャラクターが持つ特性・イメージ・パーソナリティ……それらは、ほとんど損なわれていないのです。
そう考えていくと、覇王エンジェルが担当するポジションは、メイン級ではあるものの、アイドル物では欠かせない“汚れ役”です。ライバル事務所はおいしい立ち位置ですが、そこにメインキャラクターを割り振ろうとしたら、「プロデューサーとアイドルの誰かの関係を誤解してしまい、些細なすれ違いの繰り返しの心の隙間に漬け込まれ、暗黒面に堕ちた春香」とか、「家族の借金を返すためには資金力のあるプロダクションの強引な契約に判を押さざるをえなかったやよい」とか、何かしらの力技が必要です。そうやってキャラクターの笑顔に影を落としてまで、出番や役どころだけを大きくしても仕方がないのです。それなら、汚れどころには思い切ってオリキャラを配置してしまえばいい。アーケード版から、最も印象深いユニット名を引っ張ってきてアイマスとリンクさせるところが心憎いです。
それともうひとつ大きな要素として、コミックでしか描けないもの……アイドルたち10人の、「765プロの仲間たち」としての関わり合い、というものがあります。既存のコンテンツでも「アイドラ」や「ドラマCD」などでそうした情景は描かれていますが、それらはあくまでも「番外編」でしかありません。本編がゲーム中にある以上、それらは枝のワンエピソードであり、幹にはなりえないのです。トリオユニットであっても、最終的な関係性は本命とプロデューサーの1on1に収束していきますから、アイドルたち同士、特に4人以上の人間模様は、これまでプレイヤーの想像力に委ねられていた部分でした。そこを描き出すためには、メインキャラクターたちは、たとえトップに立った千早であっても、「765プロ」の一員でなければならないのです(ストーリー的なパーツだけで考えれば、千早は大手事務所に移籍していたほうが、収まりがいいはずです。)。
そうした幸せな場所としての765プロの風景を考える上で、小鳥さん、あずささん、律子らの持つ役割は大きいといえるでしょう。ここまでの文脈としてあずささんの示す役割が大きくないように見えたかもしれませんが、あずささんは「アイドルとしての立ち位置」に拘束されないキャラクターです。最終的な着地点である「プロデューサーさんとの幸せな未来」が物語上達成できないのであれば、FランクだろうがSランクだろうがあずささんの本質は変わらないんですね。それなら、そうした価値からは離れたところで、道に迷ったり、暗い情景をあらあらうふふと和ませ、明るくする765プロの太陽としての位置づけのほうが、ずっと重要なわけです。唯一、美希の同僚となる雪歩と伊織に関しては、かなり「上田先生の中にある雪歩・伊織像」の方に引っ張られている気がするのですが、その思い入れに根ざした「完全な移植を目指しただけではない人間味」もまた、いいスパイスとして機能してるのかな、と。
そうした功名かつ絶妙なバランシングは、なかなか理屈でできるものではありません。単に、プロデューサーとしての上田夢人さんにとって、もっとも心地よく感じられるアイドルたちの関係性を世界として構築してしまった、というように僕には思えるのです。「世界や物語に合わせてキャラクターの立ち位置を変える」のではなく「キャラクターがそのキャラクターであるために、必要なように世界を組み替える」という作業は、一プロデューサーとして作品とキャラクターをとことん愛している人にしかできなかったのではないでしょうか。
765プロという空間とアイドルたちができあがってしまえば、あとは物語として綴る上で、最小限必要なNPCたちを原作ゲームから拾い出し、膨らましていく作業です。この過程で、「社長」や「審査員たち」という、構成を頻雑にする重要NPCたちを現時点ではバッサリと切り捨てているのも、コミック化に要する省略の重要性の点では興味深いです。社長やダンス審査員は大人気ですが、考えてみれば彼らは「切り捨てたとしても物語上の不備は生まれない」からこそ「影」として描かれているのですから。徳丸完さんの声を伴わない社長が、本当に必要か? そこで「NO」の判断を下せる冷徹な決断も、コミックを名作たらしめるために必要な能力なんだと思います。
これだけ練りこまれた世界と役割分担なら、十分にアニメ化は可能だと思うんですが……大人の事情もあるでしょうし、なかなか実現は大変かもしれません。でもこの設定をベースに、ドラマCD版の覇王エンジェル、今野宏美さん、阿澄佳奈さん、茅原実里さんを加えたキャストでのアニメを妄想してみたり。佐野美心は、あの立ち位置、歌唱力はアイドル神クラスなんだけど慰問で演歌を歌っててとかだとやっぱ水樹奈々さんしかないんじゃね、とか。そういう「僕の大好きなものを全部お皿に乗せてみました」的な番組とか、商品展開とかを妄想するだけでもとても楽しくて。そういう素材を提供してくれた上田先生には本当に感謝だなと、思うわけです。
実際のビジネス上のフォーマットで、今後のアイマスがどのような展開を見せるのかはわかりません。しかし、コミック版『relations』を名作たらしめているのは、結局のところ作り手の作品とキャラクターに対する大きな大きな愛情と思い入れであるということは、大きな指針になるのではないでしょうか。そうした原点は、ビジネスとしての規模が大きくなり、関わる人が増えるほど零れ落ちていきやすいものですから。僕らは忘れないし、作り手にも忘れないでほしいと、そう思います。
なぜ、アニメーションのコミック化は難しいのでしょうか。それは、まずメディアが持つ情報量の差があります。アニメーションやキャラクター性の強いゲームは、「映像(動画)」「音声」「音楽」といった、多彩な視覚・聴覚に与える情報を持っています。一方、コミックは誌面とコマのサイズに限定された単色静止画の視覚情報だけでそれを再現しなければいけません。さらに、他メディアからのコミック化は、月刊誌を媒体にすることが多いため、ページ数にもかなりの制限があります。その中で原作のストーリーを消化しつつ良さを出すためには、相当量の切り捨て・洗練によるシェイプアップが必要なわけです。小説の場合は、情景や心情の核になる部分をテキストで記述し、残りは読者の脳の中の想像で保管するという、場合によっては動画を超える処理が可能になりますから、コミック化というのはひょっとしたら、もっとも匙加減が難しい繊細な作業といえるかもしれません。
『アイドルマスター』という作品は、ファンの強い思い入れにもかかわらず、アニメ化には向かない作品だと僕は考えていました。いわゆるアイドルアニメが2000年以降ありふれているから……という理由ももちろんあるのですが、一番大きいのは、『アイドルマスター』には、幹となるストーリーがないからです。『アイドルマスター』に、一貫したストーリーはなく、唯一の例外は、Xbox360で登場した星井美希の裏ルートだけだと思われます。
アイマスにはちゃんと素晴らしいストーリーがある、と憤る方もいると思うのですが、アイマスにおいて固定で用意されているストーリーは「出会い」と各EDの「別れ、もしくは新たなるスタート」だけです。それ以外には無数の個別のエピソードとオーディションが散りばめられているだけで、どんなエピソードを経験して、どんなエンディングを迎えるのかは、プレイヤーに委ねられています。無数の選択、勝敗と、プレイヤーの思い入れ・スキルによって、2つとないアイドルの「人生」が紡がれていく。それが『アイドルマスター』の本質であり、その意味でアイマスに「決まったストーリーはない」のです。どれかひとつの道、キャラクターに焦点を当て、公式の道を示してしまったら、それはもう、『アイドルマスター』ではない。だから納得のできる形での原作のままのアニメ化は難しいだろう……と、僕は考えていました。
しかし、そこに意外な答を見出したのが、上田夢人さんの『アイドルマスターrelations』でした。プロデューサー(プレイヤー)一人一人に違った世界・人生があるから、アイマスに正解を出すことはできない。それなら、ある一人のプロデューサーの中にある世界を、そのまま提示すればいい。その人が作品に対する愛情と理解、相応の構成力を持っていれば、十分に観賞に耐える作品が出来上がる……そうして生まれたのが『アイドルマスターrelations』だと思うのです。
“客観表現”として、10人のアイドルたちをなるべく分け隔てなく扱おうとしたら、どうなるでしょうか。『アイドルマスター XENOGLOSSIA』の中にひとつの答があります。千早や雪歩が別陣営に行ったり、あずさがOGという立ち位置になったり。物語の構造上、ひとつの陣営で割り振れるパートが限られているのなら、他の役柄を与えて登場機会を確保しよう。端役をなるべく作らないことで、ファンの不満を軽減するひとつの処方です。これがいわゆるスターシステムのやり方で、『XENOGLOSSIA』のオリジナルキャラクターたちは、あくまでも脇役であることが宿命付けられています。一方、『アイドルマスターrelations』では、なんと覇王エンジェル(東豪寺麗華、朝比奈りん、三条ともみ)、佐野美心というオリジナルキャラを、主人公たちのライバル役という重要な位置に置いています。作品における役どころという意味では、あずささんよりも東豪寺の方が明らかにウェイトが上です。それなのに何故、読後、読者に不満が残らないのでしょうか。
それは、『アイドルマスターrelations』が、765プロの人間のつながり・関係性と、各キャラクターの性格・ありようの根っこにある部分を、絶対に守るべく考え抜いた痕跡が随所にあるからです。
まず、ストーリー性の強い作品にする場合、物語には主人公が必要です。現行のアイマスの場合、違和感なくセンターに立つことが許されるのは、おそらく春香か美希だけでしょう。最初に事務所で運命の少女として出会う? 春香はその初心者向けキャラクターとしての位置づけもあいまって、真ん中にいることが前提にありますし、Xbox360から登場した美希が「新人・後輩」として真ん中に来るのもまた自然です。いつだって主人公は最後にやってくるのが定番ですから。ただ、春香には「何色にも染まりやすいニュートラルな存在」という原点がありますから、キャラクターとしての濃度が若干弱い。主人公が美希になることは、ある意味必然なんですね。しかし、そこからが難しい。アイドルによって登場頻度や活躍に極端に差があることは、前述したとおり普通は抵抗があるものです。
しかしここで発想を、アーケードプロデューサーとしての原点(※上田さんはアケ版コアユーザーだから)に戻してみましょう。アイドルたちの過ごす人生、一緒に過ごした思い出は、ファーストプロデュースでのランクF引退と、ランクSで記録を残したユニットで価値が違うものでしょうか。場合によっては、新人アイドルとして去っていったあの子たちの方が、ずっと鮮烈に貴方の胸に残っていませんか。本当にキャラクターの人生を平等に愛するなら、どの程度ブレイクしているか、出番の多寡というのは、そう大きな問題ではないのです。自分の愛するキャラクターたちが、自分たちが知り、望むままにそこに息づいていてほしい。それが僕らの一番大きな望みではないでしょうか。それなら、あとは「彼女たちが一番輝く瞬間」を考えながら、立場のキャスティングを考えていけばいいのです。
やよいファンとして考えてみる。トップアイドルになったやよいが幸せになるのは素敵だ。でも、765プロのおそうじしながら、弟たちにもやしや特売品でおいしいもの食べさせようと工夫してるやよいの方が、やよいの「本質」にはより近いんじゃなかろうか。千早ファンの僕から見て、デレ期に入った千早は確かに魅力。でも、キャラクターとして一番美しいのは、内に脆さを抱えながら、歌だけを頼りに生きる孤高の少女の時なんじゃないかな、などなど。そうやって考えていくと、やよいや亜美真美がFランクで、千早がスーパーアイドルというのは単なる「適材適所」に思えてきます。真はダンスを教えてくれる先輩で、律子は補佐的ポジションの頼れるお姉さん。春香にはラジオ番組のパーソナリティという立ち位置が与えられています。それぞれのポジションは変わっています。しかし、それぞれのキャラクターが持つ特性・イメージ・パーソナリティ……それらは、ほとんど損なわれていないのです。
そう考えていくと、覇王エンジェルが担当するポジションは、メイン級ではあるものの、アイドル物では欠かせない“汚れ役”です。ライバル事務所はおいしい立ち位置ですが、そこにメインキャラクターを割り振ろうとしたら、「プロデューサーとアイドルの誰かの関係を誤解してしまい、些細なすれ違いの繰り返しの心の隙間に漬け込まれ、暗黒面に堕ちた春香」とか、「家族の借金を返すためには資金力のあるプロダクションの強引な契約に判を押さざるをえなかったやよい」とか、何かしらの力技が必要です。そうやってキャラクターの笑顔に影を落としてまで、出番や役どころだけを大きくしても仕方がないのです。それなら、汚れどころには思い切ってオリキャラを配置してしまえばいい。アーケード版から、最も印象深いユニット名を引っ張ってきてアイマスとリンクさせるところが心憎いです。
それともうひとつ大きな要素として、コミックでしか描けないもの……アイドルたち10人の、「765プロの仲間たち」としての関わり合い、というものがあります。既存のコンテンツでも「アイドラ」や「ドラマCD」などでそうした情景は描かれていますが、それらはあくまでも「番外編」でしかありません。本編がゲーム中にある以上、それらは枝のワンエピソードであり、幹にはなりえないのです。トリオユニットであっても、最終的な関係性は本命とプロデューサーの1on1に収束していきますから、アイドルたち同士、特に4人以上の人間模様は、これまでプレイヤーの想像力に委ねられていた部分でした。そこを描き出すためには、メインキャラクターたちは、たとえトップに立った千早であっても、「765プロ」の一員でなければならないのです(ストーリー的なパーツだけで考えれば、千早は大手事務所に移籍していたほうが、収まりがいいはずです。)。
そうした幸せな場所としての765プロの風景を考える上で、小鳥さん、あずささん、律子らの持つ役割は大きいといえるでしょう。ここまでの文脈としてあずささんの示す役割が大きくないように見えたかもしれませんが、あずささんは「アイドルとしての立ち位置」に拘束されないキャラクターです。最終的な着地点である「プロデューサーさんとの幸せな未来」が物語上達成できないのであれば、FランクだろうがSランクだろうがあずささんの本質は変わらないんですね。それなら、そうした価値からは離れたところで、道に迷ったり、暗い情景をあらあらうふふと和ませ、明るくする765プロの太陽としての位置づけのほうが、ずっと重要なわけです。唯一、美希の同僚となる雪歩と伊織に関しては、かなり「上田先生の中にある雪歩・伊織像」の方に引っ張られている気がするのですが、その思い入れに根ざした「完全な移植を目指しただけではない人間味」もまた、いいスパイスとして機能してるのかな、と。
そうした功名かつ絶妙なバランシングは、なかなか理屈でできるものではありません。単に、プロデューサーとしての上田夢人さんにとって、もっとも心地よく感じられるアイドルたちの関係性を世界として構築してしまった、というように僕には思えるのです。「世界や物語に合わせてキャラクターの立ち位置を変える」のではなく「キャラクターがそのキャラクターであるために、必要なように世界を組み替える」という作業は、一プロデューサーとして作品とキャラクターをとことん愛している人にしかできなかったのではないでしょうか。
765プロという空間とアイドルたちができあがってしまえば、あとは物語として綴る上で、最小限必要なNPCたちを原作ゲームから拾い出し、膨らましていく作業です。この過程で、「社長」や「審査員たち」という、構成を頻雑にする重要NPCたちを現時点ではバッサリと切り捨てているのも、コミック化に要する省略の重要性の点では興味深いです。社長やダンス審査員は大人気ですが、考えてみれば彼らは「切り捨てたとしても物語上の不備は生まれない」からこそ「影」として描かれているのですから。徳丸完さんの声を伴わない社長が、本当に必要か? そこで「NO」の判断を下せる冷徹な決断も、コミックを名作たらしめるために必要な能力なんだと思います。
これだけ練りこまれた世界と役割分担なら、十分にアニメ化は可能だと思うんですが……大人の事情もあるでしょうし、なかなか実現は大変かもしれません。でもこの設定をベースに、ドラマCD版の覇王エンジェル、今野宏美さん、阿澄佳奈さん、茅原実里さんを加えたキャストでのアニメを妄想してみたり。佐野美心は、あの立ち位置、歌唱力はアイドル神クラスなんだけど慰問で演歌を歌っててとかだとやっぱ水樹奈々さんしかないんじゃね、とか。そういう「僕の大好きなものを全部お皿に乗せてみました」的な番組とか、商品展開とかを妄想するだけでもとても楽しくて。そういう素材を提供してくれた上田先生には本当に感謝だなと、思うわけです。
実際のビジネス上のフォーマットで、今後のアイマスがどのような展開を見せるのかはわかりません。しかし、コミック版『relations』を名作たらしめているのは、結局のところ作り手の作品とキャラクターに対する大きな大きな愛情と思い入れであるということは、大きな指針になるのではないでしょうか。そうした原点は、ビジネスとしての規模が大きくなり、関わる人が増えるほど零れ落ちていきやすいものですから。僕らは忘れないし、作り手にも忘れないでほしいと、そう思います。
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コメント
修正用のパスワードを入れ間違えたようで、再びすいません。
ここまでrelationsが面白いのは上田先生が「わかっている」だけではなく、上田先生の中で765プロが確立されているからですよね。
これは本当に、一本のストーリーがある他のゲームとは違う、アイドルマスターならではのコミカライズだと思います。
>>プロデューサー(プレイヤー)一人一人に違った世界・人生があるから、アイマスに正解を出すことはできない。それなら、ある一人のプロデューサーの中にある世界を、そのまま提示すればいい。その人が作品に対する愛情と理解、相応の構成力を持っていれば、十分に観賞に耐える作品が出来上がる……そうして生まれたのが『アイドルマスターrelations』だと思うのです。
同意です。
ここまでrelationsが面白いのは上田先生が「わかっている」だけではなく、上田先生の中で765プロが確立されているからですよね。
これは本当に、一本のストーリーがある他のゲームとは違う、アイドルマスターならではのコミカライズだと思います。
>>プロデューサー(プレイヤー)一人一人に違った世界・人生があるから、アイマスに正解を出すことはできない。それなら、ある一人のプロデューサーの中にある世界を、そのまま提示すればいい。その人が作品に対する愛情と理解、相応の構成力を持っていれば、十分に観賞に耐える作品が出来上がる……そうして生まれたのが『アイドルマスターrelations』だと思うのです。
同意です。
以前の「アイドルマスターという特異性」にも唸らされましたが
今回も多面的な視点と鋭い考察、感心しました。
やはりプロの文章は違うなあ・・・。
これからも楽しみにしております。
今回も多面的な視点と鋭い考察、感心しました。
やはりプロの文章は違うなあ・・・。
これからも楽しみにしております。
posted by かわばた at
2008/03/30
12:43
[ コメントを修正する ]
キャラが多いゲームのコミカライズってどうしても一部キャラに納得がいか無いことになったり、不満が残ってしまいますんで。
でもrelationsは違いました、マジで面白いです。
僕は稼動初日組みですが、最初のプロデュースで真を失敗してFランクで終わって、次のやよいも同じFでした。ネットでいろいろ調べてやった千早もDランク・・・。
真もやよいもそれなりにコミュも取れて、引退もそれなりによかったのですが。
最後の千早は一度もパフェもグッドも取れず、引退の時まで駄目駄目、最後まで彼女を理解できない自分のふがいなさに悔しくて一度カードを折ってしまいました。
だからrelationsのプロデューサーの思いがいやってほどにシンクロしてきて、うおぉおおおおおおおおおお(ことばにできない、ただのへんたいたーれんのようだ)
ファーストプロデュースで挫折を経験した人ほどこの漫画は言葉でなく心で理解できるかと。
まぁ初めてCに上った戦友律子や、Bに達したやよいおり、Aに上った春香さんと、宍道にいったときに組んだユキポ・あずささんもいい思い出です。
つうか全ユニットごとに思い出あふれてますぜ。ってPは必読!!
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