忍者ブログ
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


2024/11/22 00:06 |
エロゲーで泣くオタクが、ケータイ小説を嘲笑う
「恋愛と空手を合わせた史上最強の武術… それが恋空なのよ」@小鳥さんG

●時代ごとの(笑)
 時代は空前のケータイ小説ブームです。そんな中でも、テキストサイト、あるいは男もすなるblogといふものを女もしてみむとてする人の多くは「文章を書く・読む」という行為に対して、一定の経験と耐性を持っている層が多数派です。ですから、旧来の小説・文学というフォーマットの上では破綻している“ケータイ小説”というジャンルに対しては、“ケータイ小説(笑)”といった冷笑的なスタンスが多いように見受けられます。

 このやりとりでまず面白い、と思うのは、“ケータイ小説(笑)”という言葉の用法そのものです。僕がPCの向こう側のネットワークに初めて接続したのは、1996年の末頃だったでしょうか。インターネットの夜明け頃でしたが、僕にとっては2400bpsのパソコン通信が世界のすべてでした。若い人にはbpsって単位はピンと来ないと思いますが、ADSLでよく使われる単位の1Mbps=1000000bpsです。ま、光回線の4万分の1の速度と思ってください。ちなみに回線使用料はずいぶん安くなって、1分8円でした。朝までチャットしてもたったの4000円です(!)。そんな時代ですから、コミュニケーションのほぼ全てはテキスト。それも長文は嫌われますから、チャットなどのコミュニケーションでは、顔文字や()文字が多用されるわけです。当時好んで出入りしてたニフティのとあるRTの雰囲気は、こんな感じ。

A「よろ~>ALL」
B「よろ~(笑)>A」
C「いらっしゃいませ...(^^)>A様」
D「来たな(ニヤリ」
E「(^-^)ノウピマァ>Aちゃ」
A「テレホ前なのに多すぎ(苦笑)>ALL」

 今見ると信じられないぐらい寒いですね。ただ、ネットにおける文法というのは目まぐるしく移り変わるもので、

A「ちょwwwwおまwwwww」
B「サーセンwwwwww」

 なんてやりとり、当時の人から見たら、かなりかわいそうな頭の持ち主に映ったでしょう。実際、広く普及する前に語尾にしきりにwをつけていた知人は、“UO(ウルティマオンライン)の流儀を外でも通すちょっと痛い奴”と見られていました。そういう時代のセンスに合わせた会話の文脈の中では、「(笑)」や「(苦笑)」は、ほんの10年前には人間関係を円滑にするためのツールだったのです。今でも、インタビュー起こしの時には「(笑)」も普通に使いますしね。

 ではその10年前よりもっと遡るとどうだったかというと、やっぱり「(笑)」なんてのは異質な表現だったのです。100巻を越えてもさっぱり終わる気配のない『グイン・サーガ』の作者である栗本薫さんは、昔からあとがきで「(笑)」的な記号をよくつかっており、小説読みの間では賛否両論、否がやや多かったように思います。あとがきの「(笑)」が議論になっていた頃から20年がたって、「スイーツ(笑)」が叩きのネタになっているわけです。どちらもやりとりの中で「(笑)」が出てくるんですが、先鋭的過ぎて叩かれる「(笑)」と、ネットの文法としては古臭すぎて、嘲笑のニュアンスを与えられた「(笑)」の間に横たわる20年という時間が、僕にはとても興味深く感じられます。

●ケータイ小説は稚拙である
 前置きが長くなりました。文学的ものさしで見た場合、ケータイ小説の多く、いやほぼ全てが、従来の小説より技術的に稚拙であることは、多くの人の共通見解でしょう。それはドストエフスキーよりあかほりさとるの方が平易で稚拙なのと同じぐらい確からしいことです。ただ、こうした流れの中で、僕が非常に違和感を覚えるのは、「恋空(笑)」を嘲笑する人に対して「で、どのケータイ小説を読んだの?」と聞くと、「いや、ああいうのはちょっとね」とか「2ページで諦めたよ」と答える人が驚くほど多いことです。劇場に足を運んで「恋空」を見に行ったって人もまた、少数派に感じます。もちろん、批判的な彼らにケータイ小説の特徴を問えば、稚拙な文章、会話中心で地の文がない、擬音の多用、ホスト・レイプ・堕胎・難病・死に満ちたおさだまりの展開……といった分析が帰ってきます。しかしそれは、我慢して読んで噛み砕いた誰かの酷評を、みんながそう言っているから、そのまま引き写しているだけです。作品を批評するのに、実物を読まず、誰かの論評をそのままに垂れ流すのは、僕の感覚では非常に不誠実なものに映るのです。

 僕の所属しているオタク寄りのコミュニティにおいても、ケータイ小説に対する反応は概して冷笑的で、嘲笑的です。しかし、それでは僕や、僕の友人たちが日頃親しんでいる小説とはどういうものでしょうか。僕が一番最近買った小説は「狼と香辛料VI」と「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん3巻」です。やや読み応えのある作品を好む傾向を反映してはいますが、どう見てもラノベです。本当にありがとうございます。友人知人に関しても多くはどっこいで、「kanonで泣いた」「AIRで泣いた」「団子で泣いた」「艶女医で抜いた」「Fateは文学」「君のぞで立ち直れなくなった」「スクールデイズで立たなくなった」といった人間がゴロゴロいます。

 そこで、冷静かつ冷酷に、そうした作品を見てみましょう。フルボイスが当たり前になって以来、ADVゲームのテキストは、台詞に依存する度合いがどんどん大きくなっています。そして、いわゆる「泣きゲー」と呼ばれる作品を見れば、そこには頭の弱い少女がわんさと出てきて、その多数は俺を好きになり、不治の病や不幸な事故にぶつかり、死や別離を乗り越え、最後はとりあえずセックスをします。ここに詰め込まれた要素って、実はとってもケータイ小説的だと思いませんか。難解さでファンを獲得しているタイプの重厚なラノベ・エロゲでキャラクターの心象を表すために使われる「壊レテ乞ワレテ恋ワレテ毀レテ」とか「色彩は耽美にして甘美、狂おしくも異常」とか画面にいっぱい“殺”が並んでるとか、そういう独特の言い回しって、伝統的文学的見地に立てば、やっぱり破綻しています。最近のアニメ化を前提にしたハーレム型ラノベに、独創性や定型を超えたメッセージ性があるかっていえば、皆無でしょう。

●だがそれがいい
 泣くために読んで、泣いてすっきりして日々を生きる。そういう世の女性たちを、泣くために読んで、そのあとでズボンを下ろしてスッキリしているオタクが冷笑しているという構図は、正直僕にはひどく皮肉な戯画に見えるのです。最近のラノベはどんどん平易な、テンプレート通りの作品が増えており、エロゲはどこまでいってもエロゲです。では、テンプレ通りで安易でキャラクターが魅力的だったり、すげぇエロかったりする“だけ”の作品は、価値がないのでしょうか? そんなわけはありません。部外者から見てどれほど歪な形であっても、その人と、その人が好み、愛する作品の間の関係性においては、確かな価値が存在しているんです。だから僕は、平易で萌えでテンプレートなアニメや小説が大好きです。そこに読み応えやテキスト的なうまさがあったりするともう最高です。

 僕の好みを基準に語るのなら、中身がスカスカだがキャラクターが最高に萌えるラノベは“あり”であり、末期がんのホストにレイプされて堕胎するケータイ小説は“ありえない”と言えます。しかし、「みんなが馬鹿にしてるケータイ小説だから、俺も馬鹿にしよう」というスタンスは、やはり貧しい物に感じられるのです。だって、ラノベや泣けるエロゲを一方的に先入観で拒絶し、書き手や読み手の人格まで否定するような人種を、僕たちは敵視してきませんでしたか。「ごちゃごちゃ言う前に、○○○の作品を読んでから言ってみろ」と思ったことはありませんか? 自分たちが憎んだような、偏見で凝り固まった人間に、僕はなりたくないのです。

 そして一人の書き手としては、日頃文章を全く読まない、知的水準が決して高くない女子層がむさぼるように読んで、100万部以上売れてしまう……そんな作品を笑う気になんて、とてもなれません。アレは、レベルが低いんじゃなく、全く異質なんだと思います。ケータイ小説家が芥川賞をとることはないでしょうが、文芸の大家が女子中高生1万人に読まれることもないでしょう。100万人の人間の心を揺さぶり、涙を流させる。それだけの力と影響力を持った駄文の束は、文学マニアにしか省みられない名文と比べて、価値がまったくないのか。未だ答を出し切れないのが、僕の偽らざる本音です。
PR

2007/12/17 23:59 | TrackBack() | 雑記(小説・コミック)

トラックバック

トラックバックURL:

<<女性声優のフェイバリット・ホールド | HOME | かーずさんに乗っかって、勝手に俺白組を考えてみた。>>
忍者ブログ[PR]