若木民喜さんの『神のみぞ知るセカイ』が、とても面白いです。
若木民喜さんと言えば、最近、想像以上のギリギリの生活を漫画家自身が告白したことで大きな話題になった漫画家さんです。連載デビュー作となった『聖結晶アルバトロス』は、少年サンデーの2006年1号から51号まで連載されて、やや打ち切りムードを漂わせながら終了しました。『聖結晶アルバトロス』の印象は、「絵柄や女の子はかわいらしいのに、設定の作りこみが少年誌向けではない。もったいない」という感じでした。
そんな若木民喜さんが満を持して発表した最新作が、『神のみぞ知るセカイ』です。ストーリーは、ギャルゲーをヤりつくした神とも言うべき少年(つまり俺たち)が、現実の少女たちを攻略しなければイケない立場に追い込まれる、というもの。二次元のテクニックで三次元の女の子をオトす……という二次元のコミック。なんだか頭がグラグラするパラドックスですが、この作品ではその違和感をいい意味で昇華していると思います。
その理由のひとつは、若木さんがギャルゲーというものを知り尽くしていること。作中に出てくる「テンプレート通りの少女たち」は、ギャルゲーのテンプレートを一歩も外していません。まったくぶれていません。これは、通常なら悪口になります。しかし、「テンプレート通りのキャラクターを意識的に作る」には、そのテンプレート、すなわちジャンルにおける造詣の基本をすべて身につけていなければなりません。そんなことは、神様にだってできません。
ではなぜ、若木さんにはそれができたのでしょうか。それは、若木さんがギャルゲーの神レベルのプレイヤーである、というのが一段目。二段目は、『神のみぞ知るセカイ』がプレイヤー視点で作られた作品であることです。キャラクターのツボや、動き方に対する判断が、「ギャルゲー・エロゲープレイヤーの目線での」判断なんですね。僕らは、人間の心や、性格や、個性を完全に把握することはできません。しかし、「ゲームをプレイしている自分の心」に関しては、誰よりもリアルに知っているのです。だからこそ、若木さんがありきたりなギャルゲープレイヤーであればあるほど、その判断は、僕らありきたりなギャルゲープレイヤーに「グッと来る」のです。だから、『神のみぞ知るセカイ』は、その価値観を共有できる人にとっては、最高に面白いのです。
●神々が抱えるストレス
めでたしめでたし。……なのですが実は、『神のみぞ知るセカイ』がキモチいい最大の理由は他にあります。こちらの理由は、すれっからしのギャルゲーマーほど強く同意してもらえると思います。それは、
「主人公が常に正解を選ぶこと」
です。主人公は、セーブロードもないクソゲーバランスのゲームに対して、経験に即した判断からTrue ENDまでのルートをまっすぐに立てます。時に失敗はあっても、それはすべてTrue ENDに至るために必要な、最低限のルート回収なのです。
こんな主人公に、憧れたことはありませんか? だって僕たちギャルゲーの神々は、いつだって答を知っているのです。おそらく、このあとはこうなる。おそらく、この女の子はこう押せばオチる。わかっているのに、延々数十分、数時間と日常と非日常を繰り返させられるのです。そうしなければ、ゲームが成立しないからですね。しかし、こうした不合理を、ギャルゲーは総じて「主人公の鈍感さ」で解決してしまいます。わかりきった答が目の前にあるのに、主人公の珍妙な判断と暴走に引きずりまわされる……それは、わかっているプレイヤーにとって耐え難いストレスです。そうした鬱屈した感情を、この作品は一刀両断に解消してくれるのです。これがキモチよくないはずがナイ! 僕は頼まれ仕事でエロゲのシナリオを書くとき、あまりにもお粗末な違和感を感じるポイントに関しては、こっそりと修正したりしますが、それにももちろん限界があります。テンプレ通りのナオンたちを、正解ルート一直線で秒殺する。それは、作り手にだって叶えられないユメなのです。
最後に、僕は『神のみぞ知るセカイ』が面白かったことが、本当に嬉しいです。漫画家さんは、本当に大変な仕事です。そして、ちょっといいな、と思う部分がどこかにあった作家さんが、ものすごく苦労をして、人生すべてを賭ける勢いで臨んだ作品であることを知れば、自然と応援したくなります。それが人情です。でも、そうやって心機一転始まった連載の多くは打ち切られていきます。それが現実なのです。僕らは期待の新連載に対して、「○○(絵柄・設定・キャラ等)はいいよね」と愛想笑いを浮かべながら、10週突きぬけの可能性を強く感じていたりします。
だからこそ、そうした作家さんの一人が、「おもしれえ!」と思えるものを描いてくれたことが、僕はとても嬉しい。そして同時に、それが一般層に届かず消えてしまったら、と思うとすごく怖いです。だから今回テキストを書きました。ネットで少しでも話題になって、連載が続きますように。若木さんの原稿料が上がりますように。アニメ化とかされちゃって、アイマスの声優さんを使ってくれますように。そんな風に願うのです。
若木民喜さんと言えば、最近、想像以上のギリギリの生活を漫画家自身が告白したことで大きな話題になった漫画家さんです。連載デビュー作となった『聖結晶アルバトロス』は、少年サンデーの2006年1号から51号まで連載されて、やや打ち切りムードを漂わせながら終了しました。『聖結晶アルバトロス』の印象は、「絵柄や女の子はかわいらしいのに、設定の作りこみが少年誌向けではない。もったいない」という感じでした。
そんな若木民喜さんが満を持して発表した最新作が、『神のみぞ知るセカイ』です。ストーリーは、ギャルゲーをヤりつくした神とも言うべき少年(つまり俺たち)が、現実の少女たちを攻略しなければイケない立場に追い込まれる、というもの。二次元のテクニックで三次元の女の子をオトす……という二次元のコミック。なんだか頭がグラグラするパラドックスですが、この作品ではその違和感をいい意味で昇華していると思います。
その理由のひとつは、若木さんがギャルゲーというものを知り尽くしていること。作中に出てくる「テンプレート通りの少女たち」は、ギャルゲーのテンプレートを一歩も外していません。まったくぶれていません。これは、通常なら悪口になります。しかし、「テンプレート通りのキャラクターを意識的に作る」には、そのテンプレート、すなわちジャンルにおける造詣の基本をすべて身につけていなければなりません。そんなことは、神様にだってできません。
ではなぜ、若木さんにはそれができたのでしょうか。それは、若木さんがギャルゲーの神レベルのプレイヤーである、というのが一段目。二段目は、『神のみぞ知るセカイ』がプレイヤー視点で作られた作品であることです。キャラクターのツボや、動き方に対する判断が、「ギャルゲー・エロゲープレイヤーの目線での」判断なんですね。僕らは、人間の心や、性格や、個性を完全に把握することはできません。しかし、「ゲームをプレイしている自分の心」に関しては、誰よりもリアルに知っているのです。だからこそ、若木さんがありきたりなギャルゲープレイヤーであればあるほど、その判断は、僕らありきたりなギャルゲープレイヤーに「グッと来る」のです。だから、『神のみぞ知るセカイ』は、その価値観を共有できる人にとっては、最高に面白いのです。
●神々が抱えるストレス
めでたしめでたし。……なのですが実は、『神のみぞ知るセカイ』がキモチいい最大の理由は他にあります。こちらの理由は、すれっからしのギャルゲーマーほど強く同意してもらえると思います。それは、
「主人公が常に正解を選ぶこと」
です。主人公は、セーブロードもないクソゲーバランスのゲームに対して、経験に即した判断からTrue ENDまでのルートをまっすぐに立てます。時に失敗はあっても、それはすべてTrue ENDに至るために必要な、最低限のルート回収なのです。
こんな主人公に、憧れたことはありませんか? だって僕たちギャルゲーの神々は、いつだって答を知っているのです。おそらく、このあとはこうなる。おそらく、この女の子はこう押せばオチる。わかっているのに、延々数十分、数時間と日常と非日常を繰り返させられるのです。そうしなければ、ゲームが成立しないからですね。しかし、こうした不合理を、ギャルゲーは総じて「主人公の鈍感さ」で解決してしまいます。わかりきった答が目の前にあるのに、主人公の珍妙な判断と暴走に引きずりまわされる……それは、わかっているプレイヤーにとって耐え難いストレスです。そうした鬱屈した感情を、この作品は一刀両断に解消してくれるのです。これがキモチよくないはずがナイ! 僕は頼まれ仕事でエロゲのシナリオを書くとき、あまりにもお粗末な違和感を感じるポイントに関しては、こっそりと修正したりしますが、それにももちろん限界があります。テンプレ通りのナオンたちを、正解ルート一直線で秒殺する。それは、作り手にだって叶えられないユメなのです。
最後に、僕は『神のみぞ知るセカイ』が面白かったことが、本当に嬉しいです。漫画家さんは、本当に大変な仕事です。そして、ちょっといいな、と思う部分がどこかにあった作家さんが、ものすごく苦労をして、人生すべてを賭ける勢いで臨んだ作品であることを知れば、自然と応援したくなります。それが人情です。でも、そうやって心機一転始まった連載の多くは打ち切られていきます。それが現実なのです。僕らは期待の新連載に対して、「○○(絵柄・設定・キャラ等)はいいよね」と愛想笑いを浮かべながら、10週突きぬけの可能性を強く感じていたりします。
だからこそ、そうした作家さんの一人が、「おもしれえ!」と思えるものを描いてくれたことが、僕はとても嬉しい。そして同時に、それが一般層に届かず消えてしまったら、と思うとすごく怖いです。だから今回テキストを書きました。ネットで少しでも話題になって、連載が続きますように。若木さんの原稿料が上がりますように。アニメ化とかされちゃって、アイマスの声優さんを使ってくれますように。そんな風に願うのです。
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「孤独のグルメ」をご存知でしょうか。久住昌之(原作)・谷口ジロー(作画)のコミック作品で、最近復刊されて静かな人気が出ています。ジャンルはグルメ漫画……になるのでしょうか。雑貨輸入商、井之頭五郎が、ふらりと立ち寄った飲食店での出来事をモノローグ主体で淡々と描いた作品です。全体の空気というか、何が面白いかは説明しにくい作品なのですが、「む、豚と豚がかぶってしまった」「ソースの味って男のコだよな」など、無意味に使いたくなるフレーズが口をつくようになったら、あなたも井之頭ワールドの一員です。そんな「孤独のグルメ」に関する話題で、
「豆かんってどんな食べ物?」
ふと、書店員の友人が呟いたのがきっかけでした。豆と寒天で豆かんだというのはもちろんあるのですが、自分の味覚のライブラリーの中に「豆かん」というものがないのです。いかに「孤独のグルメ」のグルメ要素がわりとどうでもいい(グルメ漫画で「コンビニで夕食」とか「病院食」とかテーマにならないでしょう)とはいえ、やはり味がわからないことには内容に共感がしにくい。というわけで、作品に登場する「松むら」のモデルになった浅草「梅むら」に行ってみることにしました。




作中ではすきっ腹で甘味→その後近くの洋食屋「佐久間」に駆け込む、という展開でしたが、僕らはやはりおいしく食べたいってことで逆回しで攻めることに。まずはこちらもモデルとなった洋食「佐久良」をランチで訪問しました。メニューから悩んだ末、「ビーフシチュー」と「ハンバーグ」、「カニクリームコロッケ」をシェアして、+それぞれにんにくライスをオーダーすることに。待つことしばし、最初に運ばれてきたのはビーフシチュー。一見してゴロゴロとビーフが塊で入ってます。高いとこのビーフシチューというとシチューというかこれはソースじゃね? ぐらいの感じが多いイメージですが、ここは濃厚ないわゆる「シチュー」ですね。肉と野菜の旨みがぎゅっと凝縮しつつも、肉がとろっとろでほんとおいしい。後で厚焼きトーストもオーダーしたんですが、ここのメニューは基本的に「ご飯を食べる」ためのものな感じがしました。ハンバーグは一口食べて「肉!」という一品。いわゆる肉汁したたるような、という感じとは違いますが、牛肉の風味がしっかりと詰まって、それでいてぱさつきはせず。半熟の目玉焼きを崩しながら食べるのが楽しいです。カニクリームコロッケは、お店の奥さんから「何もつけないで食べるといいよ」と言われたのが納得なぐらい、ふわぁっとした濃厚さが口の中にあふれます。握りこぶし大の球形のカニクリームコロッケなんて初めて食べた。何もつけなくても十分でしたが、卓上の小瓶のソース(リーアンドペリンみたいな感じでした)をちょびっとつけてもおいしかったです。
会計は2人で6700円。ちょっと値の張るランチですが、値段分は堪能しました。井之頭先生なら、小腹がすけばこれぐらい食べるはずです。はぁ、満足……! しかし、今回のメインはこれではないのです。浅草界隈を散策、カラオケに立ち寄りなどして腹をこなします。浅草寺、仲見世や近辺の刀剣店などをぶらつくのも楽しいですが、なんでもない街中を歩いているのも楽しいです。小料理屋が並ぶ住宅街に、唐突に現れる「ミスターデンジャー(プロレスラー・松永のステーキ屋)」や「アニマル浜口ジム」、駅前にそびえるうんこビルなどが旅情を満たしてくれます。




そして約2時間後。おやつの時間に我らはやってきました。本日のメインイベント、「高級甘味 梅むら」です。高級といっても、来店者のほとんどが注文する「豆かん」は450円と手ごろなお値段です。カウンター数席と小上がりのテーブル2つという地元民以外お断りなムードのカウンターに腰掛けて豆かんを注文。手早く豆の水を切って、寒天を勢いよくもっていきます。仕事が早い。出てきた豆かんはイメージと通りシンプルなもので、大量の豆と、角砂糖のようなサイズの寒天、そしてそこに黒蜜をかけた、それだけのもの。
ひとさじすくう…もむもむ。ふたさじ、みさじ。
同行の書店員と顔を見合わせます……これうまいわ。
僕は小豆をはじめとする豆類が得意ではないんですが、「梅むら」のは上品にしっとりと煮上がったやさしい味で、雑味や癖がまったくありません。寒天も「寒天の風味」がしっかりとあります。そして、それぞれの味わいと食感がまったく別の主張をしていて、口の中がとても楽しい。そしてそのまったく別の要素を、さらっとして、全くべたつかない黒蜜がきゅっとひとつにまとめているのです。見た目以上に豆はたっぷり入っていて、食べ応えも十分。お茶はごく普通のものでしたが、これも相性が最高。名店なめてました。和のすいーつ侮りがたし。唯一残念なのは、「煮込み雑炊」などのメニューはなくなってたんですよね。ああ、もう「ですから、雑煮は冬しかやってないんです」の声は聞けないようです。


僕は本当に肉好きで、都内のとんかつ店は100店以上行ってる馬鹿なんですが、それでもこの日の印象度では、「豆かん>洋食」でした。お土産もやってますが、浅草寺や仲見世を歩いて、演芸場で松鶴家千とせ師匠の名前を見つけてはしゃいで……といった空気の中で食べると、さらにおいしいような気がします。つくばエクスプレスで秋葉原から数分でつくようになりましたし、地方の友達が秋葉原見物をしたがったときは、ちょっと浅草まで足を伸ばしてみるコースもありかな、と思いました。
「豆かんってどんな食べ物?」
ふと、書店員の友人が呟いたのがきっかけでした。豆と寒天で豆かんだというのはもちろんあるのですが、自分の味覚のライブラリーの中に「豆かん」というものがないのです。いかに「孤独のグルメ」のグルメ要素がわりとどうでもいい(グルメ漫画で「コンビニで夕食」とか「病院食」とかテーマにならないでしょう)とはいえ、やはり味がわからないことには内容に共感がしにくい。というわけで、作品に登場する「松むら」のモデルになった浅草「梅むら」に行ってみることにしました。
作中ではすきっ腹で甘味→その後近くの洋食屋「佐久間」に駆け込む、という展開でしたが、僕らはやはりおいしく食べたいってことで逆回しで攻めることに。まずはこちらもモデルとなった洋食「佐久良」をランチで訪問しました。メニューから悩んだ末、「ビーフシチュー」と「ハンバーグ」、「カニクリームコロッケ」をシェアして、+それぞれにんにくライスをオーダーすることに。待つことしばし、最初に運ばれてきたのはビーフシチュー。一見してゴロゴロとビーフが塊で入ってます。高いとこのビーフシチューというとシチューというかこれはソースじゃね? ぐらいの感じが多いイメージですが、ここは濃厚ないわゆる「シチュー」ですね。肉と野菜の旨みがぎゅっと凝縮しつつも、肉がとろっとろでほんとおいしい。後で厚焼きトーストもオーダーしたんですが、ここのメニューは基本的に「ご飯を食べる」ためのものな感じがしました。ハンバーグは一口食べて「肉!」という一品。いわゆる肉汁したたるような、という感じとは違いますが、牛肉の風味がしっかりと詰まって、それでいてぱさつきはせず。半熟の目玉焼きを崩しながら食べるのが楽しいです。カニクリームコロッケは、お店の奥さんから「何もつけないで食べるといいよ」と言われたのが納得なぐらい、ふわぁっとした濃厚さが口の中にあふれます。握りこぶし大の球形のカニクリームコロッケなんて初めて食べた。何もつけなくても十分でしたが、卓上の小瓶のソース(リーアンドペリンみたいな感じでした)をちょびっとつけてもおいしかったです。
会計は2人で6700円。ちょっと値の張るランチですが、値段分は堪能しました。井之頭先生なら、小腹がすけばこれぐらい食べるはずです。はぁ、満足……! しかし、今回のメインはこれではないのです。浅草界隈を散策、カラオケに立ち寄りなどして腹をこなします。浅草寺、仲見世や近辺の刀剣店などをぶらつくのも楽しいですが、なんでもない街中を歩いているのも楽しいです。小料理屋が並ぶ住宅街に、唐突に現れる「ミスターデンジャー(プロレスラー・松永のステーキ屋)」や「アニマル浜口ジム」、駅前にそびえるうんこビルなどが旅情を満たしてくれます。
そして約2時間後。おやつの時間に我らはやってきました。本日のメインイベント、「高級甘味 梅むら」です。高級といっても、来店者のほとんどが注文する「豆かん」は450円と手ごろなお値段です。カウンター数席と小上がりのテーブル2つという地元民以外お断りなムードのカウンターに腰掛けて豆かんを注文。手早く豆の水を切って、寒天を勢いよくもっていきます。仕事が早い。出てきた豆かんはイメージと通りシンプルなもので、大量の豆と、角砂糖のようなサイズの寒天、そしてそこに黒蜜をかけた、それだけのもの。
ひとさじすくう…もむもむ。ふたさじ、みさじ。
同行の書店員と顔を見合わせます……これうまいわ。
僕は小豆をはじめとする豆類が得意ではないんですが、「梅むら」のは上品にしっとりと煮上がったやさしい味で、雑味や癖がまったくありません。寒天も「寒天の風味」がしっかりとあります。そして、それぞれの味わいと食感がまったく別の主張をしていて、口の中がとても楽しい。そしてそのまったく別の要素を、さらっとして、全くべたつかない黒蜜がきゅっとひとつにまとめているのです。見た目以上に豆はたっぷり入っていて、食べ応えも十分。お茶はごく普通のものでしたが、これも相性が最高。名店なめてました。和のすいーつ侮りがたし。唯一残念なのは、「煮込み雑炊」などのメニューはなくなってたんですよね。ああ、もう「ですから、雑煮は冬しかやってないんです」の声は聞けないようです。
僕は本当に肉好きで、都内のとんかつ店は100店以上行ってる馬鹿なんですが、それでもこの日の印象度では、「豆かん>洋食」でした。お土産もやってますが、浅草寺や仲見世を歩いて、演芸場で松鶴家千とせ師匠の名前を見つけてはしゃいで……といった空気の中で食べると、さらにおいしいような気がします。つくばエクスプレスで秋葉原から数分でつくようになりましたし、地方の友達が秋葉原見物をしたがったときは、ちょっと浅草まで足を伸ばしてみるコースもありかな、と思いました。
注 このテキストには『Fate/Zero』のネタバレが含まれる……というか、ネタバレしかないので、『Fate/Zero』第1巻~第4巻を通読後にご覧ください。
「恋愛と空手を合わせた史上最強の武術… それが恋空なのよ」@小鳥さんG
●時代ごとの(笑)
時代は空前のケータイ小説ブームです。そんな中でも、テキストサイト、あるいは男もすなるblogといふものを女もしてみむとてする人の多くは「文章を書く・読む」という行為に対して、一定の経験と耐性を持っている層が多数派です。ですから、旧来の小説・文学というフォーマットの上では破綻している“ケータイ小説”というジャンルに対しては、“ケータイ小説(笑)”といった冷笑的なスタンスが多いように見受けられます。
このやりとりでまず面白い、と思うのは、“ケータイ小説(笑)”という言葉の用法そのものです。僕がPCの向こう側のネットワークに初めて接続したのは、1996年の末頃だったでしょうか。インターネットの夜明け頃でしたが、僕にとっては2400bpsのパソコン通信が世界のすべてでした。若い人にはbpsって単位はピンと来ないと思いますが、ADSLでよく使われる単位の1Mbps=1000000bpsです。ま、光回線の4万分の1の速度と思ってください。ちなみに回線使用料はずいぶん安くなって、1分8円でした。朝までチャットしてもたったの4000円です(!)。そんな時代ですから、コミュニケーションのほぼ全てはテキスト。それも長文は嫌われますから、チャットなどのコミュニケーションでは、顔文字や()文字が多用されるわけです。当時好んで出入りしてたニフティのとあるRTの雰囲気は、こんな感じ。
A「よろ~>ALL」
B「よろ~(笑)>A」
C「いらっしゃいませ...(^^)>A様」
D「来たな(ニヤリ」
E「(^-^)ノウピマァ>Aちゃ」
A「テレホ前なのに多すぎ(苦笑)>ALL」
今見ると信じられないぐらい寒いですね。ただ、ネットにおける文法というのは目まぐるしく移り変わるもので、
A「ちょwwwwおまwwwww」
B「サーセンwwwwww」
なんてやりとり、当時の人から見たら、かなりかわいそうな頭の持ち主に映ったでしょう。実際、広く普及する前に語尾にしきりにwをつけていた知人は、“UO(ウルティマオンライン)の流儀を外でも通すちょっと痛い奴”と見られていました。そういう時代のセンスに合わせた会話の文脈の中では、「(笑)」や「(苦笑)」は、ほんの10年前には人間関係を円滑にするためのツールだったのです。今でも、インタビュー起こしの時には「(笑)」も普通に使いますしね。
ではその10年前よりもっと遡るとどうだったかというと、やっぱり「(笑)」なんてのは異質な表現だったのです。100巻を越えてもさっぱり終わる気配のない『グイン・サーガ』の作者である栗本薫さんは、昔からあとがきで「(笑)」的な記号をよくつかっており、小説読みの間では賛否両論、否がやや多かったように思います。あとがきの「(笑)」が議論になっていた頃から20年がたって、「スイーツ(笑)」が叩きのネタになっているわけです。どちらもやりとりの中で「(笑)」が出てくるんですが、先鋭的過ぎて叩かれる「(笑)」と、ネットの文法としては古臭すぎて、嘲笑のニュアンスを与えられた「(笑)」の間に横たわる20年という時間が、僕にはとても興味深く感じられます。
●ケータイ小説は稚拙である
前置きが長くなりました。文学的ものさしで見た場合、ケータイ小説の多く、いやほぼ全てが、従来の小説より技術的に稚拙であることは、多くの人の共通見解でしょう。それはドストエフスキーよりあかほりさとるの方が平易で稚拙なのと同じぐらい確からしいことです。ただ、こうした流れの中で、僕が非常に違和感を覚えるのは、「恋空(笑)」を嘲笑する人に対して「で、どのケータイ小説を読んだの?」と聞くと、「いや、ああいうのはちょっとね」とか「2ページで諦めたよ」と答える人が驚くほど多いことです。劇場に足を運んで「恋空」を見に行ったって人もまた、少数派に感じます。もちろん、批判的な彼らにケータイ小説の特徴を問えば、稚拙な文章、会話中心で地の文がない、擬音の多用、ホスト・レイプ・堕胎・難病・死に満ちたおさだまりの展開……といった分析が帰ってきます。しかしそれは、我慢して読んで噛み砕いた誰かの酷評を、みんながそう言っているから、そのまま引き写しているだけです。作品を批評するのに、実物を読まず、誰かの論評をそのままに垂れ流すのは、僕の感覚では非常に不誠実なものに映るのです。
僕の所属しているオタク寄りのコミュニティにおいても、ケータイ小説に対する反応は概して冷笑的で、嘲笑的です。しかし、それでは僕や、僕の友人たちが日頃親しんでいる小説とはどういうものでしょうか。僕が一番最近買った小説は「狼と香辛料VI」と「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん3巻」です。やや読み応えのある作品を好む傾向を反映してはいますが、どう見てもラノベです。本当にありがとうございます。友人知人に関しても多くはどっこいで、「kanonで泣いた」「AIRで泣いた」「団子で泣いた」「艶女医で抜いた」「Fateは文学」「君のぞで立ち直れなくなった」「スクールデイズで立たなくなった」といった人間がゴロゴロいます。
そこで、冷静かつ冷酷に、そうした作品を見てみましょう。フルボイスが当たり前になって以来、ADVゲームのテキストは、台詞に依存する度合いがどんどん大きくなっています。そして、いわゆる「泣きゲー」と呼ばれる作品を見れば、そこには頭の弱い少女がわんさと出てきて、その多数は俺を好きになり、不治の病や不幸な事故にぶつかり、死や別離を乗り越え、最後はとりあえずセックスをします。ここに詰め込まれた要素って、実はとってもケータイ小説的だと思いませんか。難解さでファンを獲得しているタイプの重厚なラノベ・エロゲでキャラクターの心象を表すために使われる「壊レテ乞ワレテ恋ワレテ毀レテ」とか「色彩は耽美にして甘美、狂おしくも異常」とか画面にいっぱい“殺”が並んでるとか、そういう独特の言い回しって、伝統的文学的見地に立てば、やっぱり破綻しています。最近のアニメ化を前提にしたハーレム型ラノベに、独創性や定型を超えたメッセージ性があるかっていえば、皆無でしょう。
●だがそれがいい
泣くために読んで、泣いてすっきりして日々を生きる。そういう世の女性たちを、泣くために読んで、そのあとでズボンを下ろしてスッキリしているオタクが冷笑しているという構図は、正直僕にはひどく皮肉な戯画に見えるのです。最近のラノベはどんどん平易な、テンプレート通りの作品が増えており、エロゲはどこまでいってもエロゲです。では、テンプレ通りで安易でキャラクターが魅力的だったり、すげぇエロかったりする“だけ”の作品は、価値がないのでしょうか? そんなわけはありません。部外者から見てどれほど歪な形であっても、その人と、その人が好み、愛する作品の間の関係性においては、確かな価値が存在しているんです。だから僕は、平易で萌えでテンプレートなアニメや小説が大好きです。そこに読み応えやテキスト的なうまさがあったりするともう最高です。
僕の好みを基準に語るのなら、中身がスカスカだがキャラクターが最高に萌えるラノベは“あり”であり、末期がんのホストにレイプされて堕胎するケータイ小説は“ありえない”と言えます。しかし、「みんなが馬鹿にしてるケータイ小説だから、俺も馬鹿にしよう」というスタンスは、やはり貧しい物に感じられるのです。だって、ラノベや泣けるエロゲを一方的に先入観で拒絶し、書き手や読み手の人格まで否定するような人種を、僕たちは敵視してきませんでしたか。「ごちゃごちゃ言う前に、○○○の作品を読んでから言ってみろ」と思ったことはありませんか? 自分たちが憎んだような、偏見で凝り固まった人間に、僕はなりたくないのです。
そして一人の書き手としては、日頃文章を全く読まない、知的水準が決して高くない女子層がむさぼるように読んで、100万部以上売れてしまう……そんな作品を笑う気になんて、とてもなれません。アレは、レベルが低いんじゃなく、全く異質なんだと思います。ケータイ小説家が芥川賞をとることはないでしょうが、文芸の大家が女子中高生1万人に読まれることもないでしょう。100万人の人間の心を揺さぶり、涙を流させる。それだけの力と影響力を持った駄文の束は、文学マニアにしか省みられない名文と比べて、価値がまったくないのか。未だ答を出し切れないのが、僕の偽らざる本音です。
●時代ごとの(笑)
時代は空前のケータイ小説ブームです。そんな中でも、テキストサイト、あるいは男もすなるblogといふものを女もしてみむとてする人の多くは「文章を書く・読む」という行為に対して、一定の経験と耐性を持っている層が多数派です。ですから、旧来の小説・文学というフォーマットの上では破綻している“ケータイ小説”というジャンルに対しては、“ケータイ小説(笑)”といった冷笑的なスタンスが多いように見受けられます。
このやりとりでまず面白い、と思うのは、“ケータイ小説(笑)”という言葉の用法そのものです。僕がPCの向こう側のネットワークに初めて接続したのは、1996年の末頃だったでしょうか。インターネットの夜明け頃でしたが、僕にとっては2400bpsのパソコン通信が世界のすべてでした。若い人にはbpsって単位はピンと来ないと思いますが、ADSLでよく使われる単位の1Mbps=1000000bpsです。ま、光回線の4万分の1の速度と思ってください。ちなみに回線使用料はずいぶん安くなって、1分8円でした。朝までチャットしてもたったの4000円です(!)。そんな時代ですから、コミュニケーションのほぼ全てはテキスト。それも長文は嫌われますから、チャットなどのコミュニケーションでは、顔文字や()文字が多用されるわけです。当時好んで出入りしてたニフティのとあるRTの雰囲気は、こんな感じ。
A「よろ~>ALL」
B「よろ~(笑)>A」
C「いらっしゃいませ...(^^)>A様」
D「来たな(ニヤリ」
E「(^-^)ノウピマァ>Aちゃ」
A「テレホ前なのに多すぎ(苦笑)>ALL」
今見ると信じられないぐらい寒いですね。ただ、ネットにおける文法というのは目まぐるしく移り変わるもので、
A「ちょwwwwおまwwwww」
B「サーセンwwwwww」
なんてやりとり、当時の人から見たら、かなりかわいそうな頭の持ち主に映ったでしょう。実際、広く普及する前に語尾にしきりにwをつけていた知人は、“UO(ウルティマオンライン)の流儀を外でも通すちょっと痛い奴”と見られていました。そういう時代のセンスに合わせた会話の文脈の中では、「(笑)」や「(苦笑)」は、ほんの10年前には人間関係を円滑にするためのツールだったのです。今でも、インタビュー起こしの時には「(笑)」も普通に使いますしね。
ではその10年前よりもっと遡るとどうだったかというと、やっぱり「(笑)」なんてのは異質な表現だったのです。100巻を越えてもさっぱり終わる気配のない『グイン・サーガ』の作者である栗本薫さんは、昔からあとがきで「(笑)」的な記号をよくつかっており、小説読みの間では賛否両論、否がやや多かったように思います。あとがきの「(笑)」が議論になっていた頃から20年がたって、「スイーツ(笑)」が叩きのネタになっているわけです。どちらもやりとりの中で「(笑)」が出てくるんですが、先鋭的過ぎて叩かれる「(笑)」と、ネットの文法としては古臭すぎて、嘲笑のニュアンスを与えられた「(笑)」の間に横たわる20年という時間が、僕にはとても興味深く感じられます。
●ケータイ小説は稚拙である
前置きが長くなりました。文学的ものさしで見た場合、ケータイ小説の多く、いやほぼ全てが、従来の小説より技術的に稚拙であることは、多くの人の共通見解でしょう。それはドストエフスキーよりあかほりさとるの方が平易で稚拙なのと同じぐらい確からしいことです。ただ、こうした流れの中で、僕が非常に違和感を覚えるのは、「恋空(笑)」を嘲笑する人に対して「で、どのケータイ小説を読んだの?」と聞くと、「いや、ああいうのはちょっとね」とか「2ページで諦めたよ」と答える人が驚くほど多いことです。劇場に足を運んで「恋空」を見に行ったって人もまた、少数派に感じます。もちろん、批判的な彼らにケータイ小説の特徴を問えば、稚拙な文章、会話中心で地の文がない、擬音の多用、ホスト・レイプ・堕胎・難病・死に満ちたおさだまりの展開……といった分析が帰ってきます。しかしそれは、我慢して読んで噛み砕いた誰かの酷評を、みんながそう言っているから、そのまま引き写しているだけです。作品を批評するのに、実物を読まず、誰かの論評をそのままに垂れ流すのは、僕の感覚では非常に不誠実なものに映るのです。
僕の所属しているオタク寄りのコミュニティにおいても、ケータイ小説に対する反応は概して冷笑的で、嘲笑的です。しかし、それでは僕や、僕の友人たちが日頃親しんでいる小説とはどういうものでしょうか。僕が一番最近買った小説は「狼と香辛料VI」と「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん3巻」です。やや読み応えのある作品を好む傾向を反映してはいますが、どう見てもラノベです。本当にありがとうございます。友人知人に関しても多くはどっこいで、「kanonで泣いた」「AIRで泣いた」「団子で泣いた」「艶女医で抜いた」「Fateは文学」「君のぞで立ち直れなくなった」「スクールデイズで立たなくなった」といった人間がゴロゴロいます。
そこで、冷静かつ冷酷に、そうした作品を見てみましょう。フルボイスが当たり前になって以来、ADVゲームのテキストは、台詞に依存する度合いがどんどん大きくなっています。そして、いわゆる「泣きゲー」と呼ばれる作品を見れば、そこには頭の弱い少女がわんさと出てきて、その多数は俺を好きになり、不治の病や不幸な事故にぶつかり、死や別離を乗り越え、最後はとりあえずセックスをします。ここに詰め込まれた要素って、実はとってもケータイ小説的だと思いませんか。難解さでファンを獲得しているタイプの重厚なラノベ・エロゲでキャラクターの心象を表すために使われる「壊レテ乞ワレテ恋ワレテ毀レテ」とか「色彩は耽美にして甘美、狂おしくも異常」とか画面にいっぱい“殺”が並んでるとか、そういう独特の言い回しって、伝統的文学的見地に立てば、やっぱり破綻しています。最近のアニメ化を前提にしたハーレム型ラノベに、独創性や定型を超えたメッセージ性があるかっていえば、皆無でしょう。
●だがそれがいい
泣くために読んで、泣いてすっきりして日々を生きる。そういう世の女性たちを、泣くために読んで、そのあとでズボンを下ろしてスッキリしているオタクが冷笑しているという構図は、正直僕にはひどく皮肉な戯画に見えるのです。最近のラノベはどんどん平易な、テンプレート通りの作品が増えており、エロゲはどこまでいってもエロゲです。では、テンプレ通りで安易でキャラクターが魅力的だったり、すげぇエロかったりする“だけ”の作品は、価値がないのでしょうか? そんなわけはありません。部外者から見てどれほど歪な形であっても、その人と、その人が好み、愛する作品の間の関係性においては、確かな価値が存在しているんです。だから僕は、平易で萌えでテンプレートなアニメや小説が大好きです。そこに読み応えやテキスト的なうまさがあったりするともう最高です。
僕の好みを基準に語るのなら、中身がスカスカだがキャラクターが最高に萌えるラノベは“あり”であり、末期がんのホストにレイプされて堕胎するケータイ小説は“ありえない”と言えます。しかし、「みんなが馬鹿にしてるケータイ小説だから、俺も馬鹿にしよう」というスタンスは、やはり貧しい物に感じられるのです。だって、ラノベや泣けるエロゲを一方的に先入観で拒絶し、書き手や読み手の人格まで否定するような人種を、僕たちは敵視してきませんでしたか。「ごちゃごちゃ言う前に、○○○の作品を読んでから言ってみろ」と思ったことはありませんか? 自分たちが憎んだような、偏見で凝り固まった人間に、僕はなりたくないのです。
そして一人の書き手としては、日頃文章を全く読まない、知的水準が決して高くない女子層がむさぼるように読んで、100万部以上売れてしまう……そんな作品を笑う気になんて、とてもなれません。アレは、レベルが低いんじゃなく、全く異質なんだと思います。ケータイ小説家が芥川賞をとることはないでしょうが、文芸の大家が女子中高生1万人に読まれることもないでしょう。100万人の人間の心を揺さぶり、涙を流させる。それだけの力と影響力を持った駄文の束は、文学マニアにしか省みられない名文と比べて、価値がまったくないのか。未だ答を出し切れないのが、僕の偽らざる本音です。

