ちょっと語り入ります。長いです。
アイドルマスターが初めて世に出たとき、彼女たちはまだ何者でもありませんでした。僕自身も初めて出会う人たちで、唯一、釘宮さんにだけ“アルフォンス・エルリック”としてお話を伺ったことがあった気がします。AOU2004のアーケード筐体初出展。プラボ中野でのロケテスト。AOU2005で行われた初のイベント「アイドルマスター6/9」……そして9人が初めて一堂に会したのが、2005年7月の『アイドルマスター』スタートアップミーティングでした。その後、ついにアーケード版『アイドルマスター』が正式稼動。イベントや取材でアイマスの存在は知っていたものの、ゲームセンターではちょっと敷居の高さを感じていた僕がこの作品に本当の意味で出会ったのは、単なる偶然でした。モニターから流れる、如月千早の“蒼い鳥”。モニターを見つめて固まったまま、気がついたら500円を筐体に投入していました。……日夜、ゲームセンターからの呼び出しメールに応える日々の始まりでした。
ライブイベントとしてのアイマスの始まりは、2006年1月、雪の赤羽。赤羽会館での“アイドルマスターシークレットライブ”でした。キャパは600~700くらいで、参加希望者にはかなりの戦死者が。釘宮さん以外の8人が集まりましたが、当時の曲のストックはそけぞれの持ち歌+「THE IDOL M@STER」の10曲だけ。ドラマやトークパートが多めに入った、ややイベント色の強いものでした。イベント自体も手作りで、振り付けは若林直美さんが自ら担当し、メンバーにビデオで手渡していました。客席のコールやPPPHに「こういうのに憧れてた……」と、少女のように呟いていた若林さんを覚えています。終演後、若林さんは本当に精根尽き果てた様子でした。誰よりも準備にがんばって気を張っていたんだと思います。中村さんは、コメント取り用の控室に入ってくるときまでずっとモグモグモグモグモグ何かを食べてたのですが、口の中が渇いて飲み込めず、「大丈夫、出す? ティッシュいる?」と仁後さんが世話を焼いていました。今井さんはアイマスへの思い入れが溢れすぎて、コメント量が3倍ぐらいありました。智秋さんは「アイマスのアイはアイラブのアイ、愛するのアイ」「どんとこい2006」などのサムカワワードを流行らせようとしていましたが、まるで流行りませんでした。少しJPY時代には早かったようです。そういえば、この頃の下田さんの印象があまりありません。先輩たちに囲まれてコチコチになっていた新人さんが、あんな無敵な女性に育つのだから3年は短く長いです。仁後さんは、「もっと踊りたいんです!」という気持ちが溢れそうになっていました。「ドームですよ、ドーム」……それはまだ、冗談も冗談の世界でした。そういえばこの時、すでに場内アナウンスは滝田樹里さんだったんですが、まだ誰も、彼女の名前すら知りませんでした。
2006年3月。水面下で密やかに広まりつつあった『アイドルマスター』の熱が、一気に燃え上がったできごとがありました。千葉行徳のゲームセンター・アブレイズ行徳でのイベントです。今井さん、下田さん、中村さん、仁後さんの4人が、店内のイベントスペースでトークショーやゲームを行ない、さらには参加者全員に4人がそれぞれサインを行うという、今からは信じられない神イベント。なんとイベント終了までは店舗をクローズドしてイベントに専念するという熱の入れようです。しかし、悲劇が起こったのは午前5時。折悪しく雨が降りしきる中、始発が入る前になると、そこかしこの路地、漫画喫茶等から、わさ、わさ……と現れる人、人、人。ダミー列が出来、怒号が飛び交い、店長さんが頭を下げ……夜明け頃に500人を遥かに越える殺気立った集団が店舗前の道路に殺到するという、前代未聞の事態になったのでした。抽選にする道はなかったのか、事前の読みが甘かったのは否めませんが、こんなイベント、ゲームセンターの広報活動として、収支が合うはずがありません。かなりの持ち出しが合ったようで、「またイベント? 絶対無理だよ」と笑っていた店長さんを覚えています。本当に『アイドルマスター』という作品を愛してくれている人でした。僕もサイン欲しいしハイタッチしたかったです。
2006年4月には「ラジオdeアイマSHOW!」が放送開始。今井さん、中村さん、落合さんがパーソナリティのこの番組は、その後の展開の大きなターニングポイントだったと言ってもいいでしょう。一歩先んじて「THE IDOLM@STER RADIO」の放送が始まってましたが、僕は雑音だらけで初期はほとんど聴けてません; そしてラジオなどの露出が高まる中、7月23日、スタジオコーストで開催された“THE IDOLM@STER 1st ANNIVERSARY LIVE”には2000人を越える観衆が詰め掛けました。この日は、ついに9人のアイドルたち全員が集結。釘宮さんも含めた9/9が揃った記念すべき一日でした。滝田さんもドラマパートに参加! このイベントあたりからコロムビアミュージックさんが積極的に協力していたような記憶があります。この日は釘宮さんがそこにいて、9人が揃っていることが嬉しくて仕方なかったです。この頃僕は「下田さんの“とかちつくちて”とか、“みぃだれる”のこぶしがいいんだよ」とか言いまくってたんですが、あまり相手にされませんでした。あと、仁後さんが念願のダンスで重ねたトレーニングの成果を存分に発揮していたのも印象的でした。
2006年9月。今や『アイドルマスター』には欠かせない、もうひとりのアイドルが初めて登場します。東京ゲームショー2006、長谷川明子さんの初イベントです。こちらも初公開のXbox360版のごまえー映像の鮮烈過ぎる映像と共のデビューでした。トークにはまだ硬さがありましたが、Relationsを歌う姿を見て、歌唱力と演技に関しては大丈夫、信頼できると安心したものです。そして中村さんの画像チェックが「いいの選んでね」で終わったのは僕の人生最速記録でした。そして、この秋はアイマスイベントラッシュ。10月にはらじましょの公録が曳船で行われたのですが、なんとこの会場では落合さんの番組卒業を発表! 映像コメント組も、ゆりしーの卒業を知らずに喋っているという、まさに「電撃卒業」でした。「飛ぶ鳥後を“にご”さず、ということで×2」のゆりしーのフリで登場したのは、新パーソナリティの仁後さん! まだちょっと遠慮がある感じだったこの頃。1年半後、今井さん、中村さんの脱線を鉈のようにバッサリとぶった切って進行するたくましい仁後さんの姿は想像できませんでした。11月はアイマスレディオの公録。バスローブ姿も披露した智秋さんによる、JPY・サムカワ時代の幕開けでした。そういえば、最近は頻繁にイベントが行われる銀座パセラで、かなり先駆けになったイベントな気もします。
ただ……このイベントでひとつ、今でも悔いていることがあります。終了後、「今後アニメ等の新展開について聞かせてください」という質問をしたんです。あー、昔に戻ってぶん殴って止めたい。その時の微妙な空気の理由は、年明けにわかることになります…。その前夜というべき2006年12月22日には、石丸電気イベントに今井さん、中村さん、長谷川さんが登場。あとガミPもさりげなく初登場? だったんですが、この時はあんた誰ですか、という感じでした。思えば、この時の「オリコンデイリー10位報告」が、その後のアイマスCDの快進撃の最初の波だった気がします。
2007年1月。『アイドルマスター XENOGLOSSIA』の発表では、足元がガラガラと崩れていくような感覚でした。あの当時は、今のようにゲームとアニメが別個のシリーズとしてプロジェクト内で共存できる保証はどこにもなかったのです。実際、出演声優の豪華さから、アニメというパイの大きさの前にはアケ版のファンは問題にならない、と僕に言った人もいました。「全員がアニメ版を支持しても、僕は最後までこのアイマスに張り続けますよ」と言った啖呵は、冗談めかしていましたがどこまでも本気でした。坂上Pと小野田さんにインタビューした際、記事にもならないのにかなり食い下がって聞いた覚えがあります。「4月のライブが旧アイマス声優の卒業式だ」……そんなまことしやかな憶測が流れ、プロデューサーたちは安眠できる夜がなかったのです。そんな時期に潰れずに済んだのは、2007年1月末に、Xbox 360版『アイドルマスター』の発売が迫っていたからです。家庭用版『アイドルマスター』は、ゲームセンターで遊ぶのはちょっと……と考えていたユーザーを掘り起こし、360市場では大健闘と言っていいヒットとなりました。360版はDLC市場で大きな鉱脈を掘り当てると共に、「ユーザーの家庭にアイマスの絵素材がやってきたこと」は、とあるサイトの登場と共に新たな起爆剤になります。とあるサイトとはもちろん、「ニコニコ動画」。この登場するや否や、ネットユーザーと日本のネットのトラフィックのど真ん中にどっかりと座りこんだサイトで、「とかち」やアイマスは大人気になりました。僕は、ニコニコ動画はアイマスブレイクのあくまできっかけのひとつだと思います。しかし、360版の登場と時を同じくして、この新たな推進力が登場したのは、アイマスの持つ「強運」の象徴のひとつだと思います。
2007年2月はアイドルマスターとは直接関係ありませんが、今井麻美さん、中村繪里子さんのユニット「A.I.E.N」が自主イベントを開催。開演直後、銀座パセラ後方の階段で撮影のために陣取っていたら、背後に気配が。振り返ってみたらなんと中村さんで、あわてて場所を譲ろうとしたら「そのまま。」と言われ、固まったまま壁になってたのを思い出します(中村さんは後方からサプライズ登場する演出だった)。またやりたい! と無邪気に言う中村さんと、準備に奔走してしばらくいいや、という今井さんが印象的でした。また、この日のいくつかの幸運な出会いの縁がなければ、こうして僕がblogをやっていることもなかったかもしれません。
2007年4月、今から一年前。お台場・ZEPP TOKYOで、2度目となる全員参加、9/9ならぬ、滝田さんと長谷川さんを加えた11/11、「THE IDOLM@STER ALL STAR LIVE 2007」が行われました。Xbox360版の楽曲を加え、ようやくフルサイズのライブが行われるだけのストックができました。メンバー全員を揃え、この時点のライブのひとつの完成形ともいえる形だっただけに、映像化されていないのは本当に残念です。会場からの大きな「ゆりしー」コール。この日は釘宮さんが本当に楽しそうに歌い踊っていたのが印象的です。智秋さんも、Aice5ツアー、君のぞのライブを抱えながらもパフォーマンスの高さは変わらず。そしてこの日は、滝田樹里さんがステージに歌い手として立った日でもありました。
そして、2007年10月~11月に行われた「Go to the NEXTSTAGE!! THE IDOLM@STER GREAT PARTY」は、大阪BIG CATと渋谷O-EASTの計3会場のチケットを、瞬く間に(チケット販売形式により、時間こそかかりましたが)食らい尽くしました。(僕自身は、渋谷で「取材陣の皆さんも、大阪来てくれますよね?」という今井さんの質問に「もちろん行きます!」と答えてしまったがために、大阪まで自腹で行くことになったのはいい思い出です。)
コーストやZEPPといった2000人クラスの会場でのライブの成功、そしてグレートパーティのソールドアウト。10000枚越えという脅威のセールスを安定して続けたMASTER ARTIST……それらひとつひとつの実績の積み重ねが、機は熟したとの判断につながったのでしょう。
2008年7月27日、Go to the NEW STAGE! THE IDOLM@STER 3rd ANNIVERSARY LIVE。会場、パシフィコ横浜。
キャパシティ5000人は、アイドルマスターにとっても未知なる冒険です。しかしそれは、単なる一過性の話題や流行によるものではありません。僕が印象に残っているものをあげただけでも、軽く退くぐらいの長さになったアイドルマスターの歴史。これ以外にも公録などのイベントは他にもありましたし、その間に発売された数十枚のCD。アーケード版、360版、L4Uといった本編に収録された演技、歌。華々しいイベントやライブ以外にも、アイドルマスターに関わる声優さんたちは何時間、何十時間、何百時間とスタジオにこもり、レッスンに打ち込んできたのです。3年も前に発売されたアーケード作品が、幾つかの幸運な時流にも乗ってこの舞台に辿り着いたのは、ひとつの奇跡と言ってもいいでしょう。しかしそれは、彼女たちの熱意と努力の積み重ね、そして僕らが『アイドルマスター』と出会った幸運の無数な積み重ねがなければ決して辿り着くことのなかった「必然」なのだと思います。
3周年、いえ、レコーディングのスタートで言えば、あと2年は遡るでしょうか。今度のライブはそうした歴史のひとつの到達点です。しかし、タイトルにもある通り、このライブは次なるステージへの第一歩でもあります。伝説はまた、ここから始まるのです。
(ニコニコの登場時期の訂正などに合わせて、一部テキストをリライトしました。4/4 19:50)
アイドルマスターが初めて世に出たとき、彼女たちはまだ何者でもありませんでした。僕自身も初めて出会う人たちで、唯一、釘宮さんにだけ“アルフォンス・エルリック”としてお話を伺ったことがあった気がします。AOU2004のアーケード筐体初出展。プラボ中野でのロケテスト。AOU2005で行われた初のイベント「アイドルマスター6/9」……そして9人が初めて一堂に会したのが、2005年7月の『アイドルマスター』スタートアップミーティングでした。その後、ついにアーケード版『アイドルマスター』が正式稼動。イベントや取材でアイマスの存在は知っていたものの、ゲームセンターではちょっと敷居の高さを感じていた僕がこの作品に本当の意味で出会ったのは、単なる偶然でした。モニターから流れる、如月千早の“蒼い鳥”。モニターを見つめて固まったまま、気がついたら500円を筐体に投入していました。……日夜、ゲームセンターからの呼び出しメールに応える日々の始まりでした。
ライブイベントとしてのアイマスの始まりは、2006年1月、雪の赤羽。赤羽会館での“アイドルマスターシークレットライブ”でした。キャパは600~700くらいで、参加希望者にはかなりの戦死者が。釘宮さん以外の8人が集まりましたが、当時の曲のストックはそけぞれの持ち歌+「THE IDOL M@STER」の10曲だけ。ドラマやトークパートが多めに入った、ややイベント色の強いものでした。イベント自体も手作りで、振り付けは若林直美さんが自ら担当し、メンバーにビデオで手渡していました。客席のコールやPPPHに「こういうのに憧れてた……」と、少女のように呟いていた若林さんを覚えています。終演後、若林さんは本当に精根尽き果てた様子でした。誰よりも準備にがんばって気を張っていたんだと思います。中村さんは、コメント取り用の控室に入ってくるときまでずっとモグモグモグモグモグ何かを食べてたのですが、口の中が渇いて飲み込めず、「大丈夫、出す? ティッシュいる?」と仁後さんが世話を焼いていました。今井さんはアイマスへの思い入れが溢れすぎて、コメント量が3倍ぐらいありました。智秋さんは「アイマスのアイはアイラブのアイ、愛するのアイ」「どんとこい2006」などのサムカワワードを流行らせようとしていましたが、まるで流行りませんでした。少しJPY時代には早かったようです。そういえば、この頃の下田さんの印象があまりありません。先輩たちに囲まれてコチコチになっていた新人さんが、あんな無敵な女性に育つのだから3年は短く長いです。仁後さんは、「もっと踊りたいんです!」という気持ちが溢れそうになっていました。「ドームですよ、ドーム」……それはまだ、冗談も冗談の世界でした。そういえばこの時、すでに場内アナウンスは滝田樹里さんだったんですが、まだ誰も、彼女の名前すら知りませんでした。
2006年3月。水面下で密やかに広まりつつあった『アイドルマスター』の熱が、一気に燃え上がったできごとがありました。千葉行徳のゲームセンター・アブレイズ行徳でのイベントです。今井さん、下田さん、中村さん、仁後さんの4人が、店内のイベントスペースでトークショーやゲームを行ない、さらには参加者全員に4人がそれぞれサインを行うという、今からは信じられない神イベント。なんとイベント終了までは店舗をクローズドしてイベントに専念するという熱の入れようです。しかし、悲劇が起こったのは午前5時。折悪しく雨が降りしきる中、始発が入る前になると、そこかしこの路地、漫画喫茶等から、わさ、わさ……と現れる人、人、人。ダミー列が出来、怒号が飛び交い、店長さんが頭を下げ……夜明け頃に500人を遥かに越える殺気立った集団が店舗前の道路に殺到するという、前代未聞の事態になったのでした。抽選にする道はなかったのか、事前の読みが甘かったのは否めませんが、こんなイベント、ゲームセンターの広報活動として、収支が合うはずがありません。かなりの持ち出しが合ったようで、「またイベント? 絶対無理だよ」と笑っていた店長さんを覚えています。本当に『アイドルマスター』という作品を愛してくれている人でした。僕もサイン欲しいしハイタッチしたかったです。
2006年4月には「ラジオdeアイマSHOW!」が放送開始。今井さん、中村さん、落合さんがパーソナリティのこの番組は、その後の展開の大きなターニングポイントだったと言ってもいいでしょう。一歩先んじて「THE IDOLM@STER RADIO」の放送が始まってましたが、僕は雑音だらけで初期はほとんど聴けてません; そしてラジオなどの露出が高まる中、7月23日、スタジオコーストで開催された“THE IDOLM@STER 1st ANNIVERSARY LIVE”には2000人を越える観衆が詰め掛けました。この日は、ついに9人のアイドルたち全員が集結。釘宮さんも含めた9/9が揃った記念すべき一日でした。滝田さんもドラマパートに参加! このイベントあたりからコロムビアミュージックさんが積極的に協力していたような記憶があります。この日は釘宮さんがそこにいて、9人が揃っていることが嬉しくて仕方なかったです。この頃僕は「下田さんの“とかちつくちて”とか、“みぃだれる”のこぶしがいいんだよ」とか言いまくってたんですが、あまり相手にされませんでした。あと、仁後さんが念願のダンスで重ねたトレーニングの成果を存分に発揮していたのも印象的でした。
2006年9月。今や『アイドルマスター』には欠かせない、もうひとりのアイドルが初めて登場します。東京ゲームショー2006、長谷川明子さんの初イベントです。こちらも初公開のXbox360版のごまえー映像の鮮烈過ぎる映像と共のデビューでした。トークにはまだ硬さがありましたが、Relationsを歌う姿を見て、歌唱力と演技に関しては大丈夫、信頼できると安心したものです。そして中村さんの画像チェックが「いいの選んでね」で終わったのは僕の人生最速記録でした。そして、この秋はアイマスイベントラッシュ。10月にはらじましょの公録が曳船で行われたのですが、なんとこの会場では落合さんの番組卒業を発表! 映像コメント組も、ゆりしーの卒業を知らずに喋っているという、まさに「電撃卒業」でした。「飛ぶ鳥後を“にご”さず、ということで×2」のゆりしーのフリで登場したのは、新パーソナリティの仁後さん! まだちょっと遠慮がある感じだったこの頃。1年半後、今井さん、中村さんの脱線を鉈のようにバッサリとぶった切って進行するたくましい仁後さんの姿は想像できませんでした。11月はアイマスレディオの公録。バスローブ姿も披露した智秋さんによる、JPY・サムカワ時代の幕開けでした。そういえば、最近は頻繁にイベントが行われる銀座パセラで、かなり先駆けになったイベントな気もします。
ただ……このイベントでひとつ、今でも悔いていることがあります。終了後、「今後アニメ等の新展開について聞かせてください」という質問をしたんです。あー、昔に戻ってぶん殴って止めたい。その時の微妙な空気の理由は、年明けにわかることになります…。その前夜というべき2006年12月22日には、石丸電気イベントに今井さん、中村さん、長谷川さんが登場。あとガミPもさりげなく初登場? だったんですが、この時はあんた誰ですか、という感じでした。思えば、この時の「オリコンデイリー10位報告」が、その後のアイマスCDの快進撃の最初の波だった気がします。
2007年1月。『アイドルマスター XENOGLOSSIA』の発表では、足元がガラガラと崩れていくような感覚でした。あの当時は、今のようにゲームとアニメが別個のシリーズとしてプロジェクト内で共存できる保証はどこにもなかったのです。実際、出演声優の豪華さから、アニメというパイの大きさの前にはアケ版のファンは問題にならない、と僕に言った人もいました。「全員がアニメ版を支持しても、僕は最後までこのアイマスに張り続けますよ」と言った啖呵は、冗談めかしていましたがどこまでも本気でした。坂上Pと小野田さんにインタビューした際、記事にもならないのにかなり食い下がって聞いた覚えがあります。「4月のライブが旧アイマス声優の卒業式だ」……そんなまことしやかな憶測が流れ、プロデューサーたちは安眠できる夜がなかったのです。そんな時期に潰れずに済んだのは、2007年1月末に、Xbox 360版『アイドルマスター』の発売が迫っていたからです。家庭用版『アイドルマスター』は、ゲームセンターで遊ぶのはちょっと……と考えていたユーザーを掘り起こし、360市場では大健闘と言っていいヒットとなりました。360版はDLC市場で大きな鉱脈を掘り当てると共に、「ユーザーの家庭にアイマスの絵素材がやってきたこと」は、とあるサイトの登場と共に新たな起爆剤になります。とあるサイトとはもちろん、「ニコニコ動画」。この登場するや否や、ネットユーザーと日本のネットのトラフィックのど真ん中にどっかりと座りこんだサイトで、「とかち」やアイマスは大人気になりました。僕は、ニコニコ動画はアイマスブレイクのあくまできっかけのひとつだと思います。しかし、360版の登場と時を同じくして、この新たな推進力が登場したのは、アイマスの持つ「強運」の象徴のひとつだと思います。
2007年2月はアイドルマスターとは直接関係ありませんが、今井麻美さん、中村繪里子さんのユニット「A.I.E.N」が自主イベントを開催。開演直後、銀座パセラ後方の階段で撮影のために陣取っていたら、背後に気配が。振り返ってみたらなんと中村さんで、あわてて場所を譲ろうとしたら「そのまま。」と言われ、固まったまま壁になってたのを思い出します(中村さんは後方からサプライズ登場する演出だった)。またやりたい! と無邪気に言う中村さんと、準備に奔走してしばらくいいや、という今井さんが印象的でした。また、この日のいくつかの幸運な出会いの縁がなければ、こうして僕がblogをやっていることもなかったかもしれません。
2007年4月、今から一年前。お台場・ZEPP TOKYOで、2度目となる全員参加、9/9ならぬ、滝田さんと長谷川さんを加えた11/11、「THE IDOLM@STER ALL STAR LIVE 2007」が行われました。Xbox360版の楽曲を加え、ようやくフルサイズのライブが行われるだけのストックができました。メンバー全員を揃え、この時点のライブのひとつの完成形ともいえる形だっただけに、映像化されていないのは本当に残念です。会場からの大きな「ゆりしー」コール。この日は釘宮さんが本当に楽しそうに歌い踊っていたのが印象的です。智秋さんも、Aice5ツアー、君のぞのライブを抱えながらもパフォーマンスの高さは変わらず。そしてこの日は、滝田樹里さんがステージに歌い手として立った日でもありました。
そして、2007年10月~11月に行われた「Go to the NEXTSTAGE!! THE IDOLM@STER GREAT PARTY」は、大阪BIG CATと渋谷O-EASTの計3会場のチケットを、瞬く間に(チケット販売形式により、時間こそかかりましたが)食らい尽くしました。(僕自身は、渋谷で「取材陣の皆さんも、大阪来てくれますよね?」という今井さんの質問に「もちろん行きます!」と答えてしまったがために、大阪まで自腹で行くことになったのはいい思い出です。)
コーストやZEPPといった2000人クラスの会場でのライブの成功、そしてグレートパーティのソールドアウト。10000枚越えという脅威のセールスを安定して続けたMASTER ARTIST……それらひとつひとつの実績の積み重ねが、機は熟したとの判断につながったのでしょう。
2008年7月27日、Go to the NEW STAGE! THE IDOLM@STER 3rd ANNIVERSARY LIVE。会場、パシフィコ横浜。
キャパシティ5000人は、アイドルマスターにとっても未知なる冒険です。しかしそれは、単なる一過性の話題や流行によるものではありません。僕が印象に残っているものをあげただけでも、軽く退くぐらいの長さになったアイドルマスターの歴史。これ以外にも公録などのイベントは他にもありましたし、その間に発売された数十枚のCD。アーケード版、360版、L4Uといった本編に収録された演技、歌。華々しいイベントやライブ以外にも、アイドルマスターに関わる声優さんたちは何時間、何十時間、何百時間とスタジオにこもり、レッスンに打ち込んできたのです。3年も前に発売されたアーケード作品が、幾つかの幸運な時流にも乗ってこの舞台に辿り着いたのは、ひとつの奇跡と言ってもいいでしょう。しかしそれは、彼女たちの熱意と努力の積み重ね、そして僕らが『アイドルマスター』と出会った幸運の無数な積み重ねがなければ決して辿り着くことのなかった「必然」なのだと思います。
3周年、いえ、レコーディングのスタートで言えば、あと2年は遡るでしょうか。今度のライブはそうした歴史のひとつの到達点です。しかし、タイトルにもある通り、このライブは次なるステージへの第一歩でもあります。伝説はまた、ここから始まるのです。
(ニコニコの登場時期の訂正などに合わせて、一部テキストをリライトしました。4/4 19:50)
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コメント
無題
ヲレを泣かすな(T-T)
posted by もぅ、バカ、バカ、バカ…ばか at
2008/04/04
09:50
[ コメントを修正する ]
泣いているのはキミだけじゃない・・・
ちゅうかオイラの日記かと錯覚をおぼえる気分です!
ただひとつ・・・
「アイマスのアイはラブのアイ」は
オイラの中では絶賛流行語大賞中です!(ワライ)
感動のあまりコメントしてしまいました。
はじめましてで失礼しました~
ちゅうかオイラの日記かと錯覚をおぼえる気分です!
ただひとつ・・・
「アイマスのアイはラブのアイ」は
オイラの中では絶賛流行語大賞中です!(ワライ)
感動のあまりコメントしてしまいました。
はじめましてで失礼しました~
いい文章ですねー。
ただニコニコ動画の登場が遅すぎる気が…
2月の時点で、ニコニコの美希コミュととかちが
100万ヒットしネットでは大ブームになってました。当時は
アカウント制ではなかったのでYOUTUBEのように自由に見れました。(というかYOUTUBEそのまま借りてたけど)
2007年4月1日に地域コミュニティネットのMyとかち.jpが
Myとかちつくちてjpになるぐらい、浸透度が高くなりました
し。(アイマスの名が知られてても、とかちなどのネタは
世間では知られてなかった。)
売り上げも初週2万5千本と普及率ゼロに近い360としてはか
なり高い数となりました。
これはアーケード時代のファンのおかげと思われます。
ただ、その後も毎週ほとんど売り上げを落とさず最終的に
プラチナ含めですが10万本と言う数になりました。
これはニコニコの貢献が大で無いかと…
私も5月になって360買う決心がつきました。
それに、mixiで、プロフに好きな曲の欄に普通の曲ばかり
書いてある中に、いきなり「隣に…」が入ってきたり、ライト層にも相当高い宣伝効果があると思います。
これを生かして、360だけでなく、もっと新しい世界に
踏み出してほしいですねー
まあ、確かに無断投稿なのであまり褒められた物でもない
のですが…
以上ニコ厨の独り言でした。
ただニコニコ動画の登場が遅すぎる気が…
2月の時点で、ニコニコの美希コミュととかちが
100万ヒットしネットでは大ブームになってました。当時は
アカウント制ではなかったのでYOUTUBEのように自由に見れました。(というかYOUTUBEそのまま借りてたけど)
2007年4月1日に地域コミュニティネットのMyとかち.jpが
Myとかちつくちてjpになるぐらい、浸透度が高くなりました
し。(アイマスの名が知られてても、とかちなどのネタは
世間では知られてなかった。)
売り上げも初週2万5千本と普及率ゼロに近い360としてはか
なり高い数となりました。
これはアーケード時代のファンのおかげと思われます。
ただ、その後も毎週ほとんど売り上げを落とさず最終的に
プラチナ含めですが10万本と言う数になりました。
これはニコニコの貢献が大で無いかと…
私も5月になって360買う決心がつきました。
それに、mixiで、プロフに好きな曲の欄に普通の曲ばかり
書いてある中に、いきなり「隣に…」が入ってきたり、ライト層にも相当高い宣伝効果があると思います。
これを生かして、360だけでなく、もっと新しい世界に
踏み出してほしいですねー
まあ、確かに無断投稿なのであまり褒められた物でもない
のですが…
以上ニコ厨の独り言でした。
posted by NONAME at
2008/04/04
17:32
[ コメントを修正する ]
>デレている方
泣くのはライブ会場でにしましょう。
>ほげろーPさん
流行ってましたか(笑)。
一プロデューサーの本音なので、わりと共通してる人も多いかと思います。
>ななしさん
深夜一発書きなのであちこち荒いです、すいません。
ニコニコは結構若いID持ってるんですが、wikiをぼーっと確認して「6月かぁ」と思ってしまいました^^;
僕はニコニコは「入口」を広げた効果は大きいと思いますが、それがブレイクに繋がったのはコンテンツと中の人の魅力の力だと思います。
泣くのはライブ会場でにしましょう。
>ほげろーPさん
流行ってましたか(笑)。
一プロデューサーの本音なので、わりと共通してる人も多いかと思います。
>ななしさん
深夜一発書きなのであちこち荒いです、すいません。
ニコニコは結構若いID持ってるんですが、wikiをぼーっと確認して「6月かぁ」と思ってしまいました^^;
僕はニコニコは「入口」を広げた効果は大きいと思いますが、それがブレイクに繋がったのはコンテンツと中の人の魅力の力だと思います。
posted by なかざと at
2008/04/04
19:58
[ コメントを修正する ]
>僕はニコニコは「入口」を広げた効果は大きいと思いますが
というか流行り廃りの異常に速いニコニコで1ジャンルとしてありつづけているのが既にコンテンツと中の人の魅力の力によるのではないでしょうか
DLC,MAやラジオなどの燃料が一切なしに(ニコ内の)年の変わった今まで流れが続くなんてことは無かったでしょうし
というか流行り廃りの異常に速いニコニコで1ジャンルとしてありつづけているのが既にコンテンツと中の人の魅力の力によるのではないでしょうか
DLC,MAやラジオなどの燃料が一切なしに(ニコ内の)年の変わった今まで流れが続くなんてことは無かったでしょうし
posted by み at
2008/04/04
21:04
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