1999年1月・全日本プロレス大阪府立体育会館大会。三沢光晴対川田利明の三冠戦は、四天王プロレスのひとつの到達点のひとつだったと思います。クライマックスは川田のパワーボムを三沢がウラカン・ラナで切り返そうとする攻防。お互いの重心とパワー、遠心力が均衡したところで、川田が押しつぶす。エビぞったまま、ぐしゃりとありえない角度で潰される三沢。
ゾっとしました。なんとなく、“壊れる”という予感しかしない潰し方だったから。試合後、府立の裏口に救急車が到着し、僕と友人は居てもたってもいられずそちらに走りました。三沢にもしものことが……と思ったからです。ところが、その日運ばれていったのは、勝ったはずの川田。実は試合中に川田は右腕尺骨を骨折していたといいます。その後、駅に向かう途中のホテルのロビーで談笑する三沢の姿を見て、やっぱり三沢は不死身だと僕らは笑っていました。しかしそれぐらいギリギリのところで試合は行われていたのです。
* * *
僕は、全日本プロレスを馬鹿にしていた時期がありました。猪木が先頭に立つ新日本プロレスの刺激的な雰囲気に比べて、全日は鈍重な相撲取りがもたもたした試合をしている団体、ガイジンはすごいけど……そんな偏見(と一面の事実)があったのです。それを変えてくれたのが、若き日の二代目タイガーであり、ハンセンに立ち向かう小橋の姿でした。
90年代中ばから2000年を少し回る頃まで。全日本プロレスと全日本女子プロレス、2つの“ALL JAPAN”が、確かに日本一面白い格闘スポーツだった時期があったと、僕は思っています。エンターテイメントと闘いを両立したプロレスの、ひとつの到達点がそこにあったと。これから、有識者によって技の危険がクローズアップされるでしょう。しかし、四天王プロレスの発明は、頭から落とす危険な技ではありません。あらゆる技の存在を可能にする、美しく、地道な“受け”です。三沢なら、小橋なら絶対に受け切る。それだけのゆるぎない信頼と技術が彼らにはあったのです。
頭部から落とす危険な技の代名詞である三沢の“タイガードライバー91”ですが、彼がこの技を(多くは受けが未熟な)外国人レスラーに仕掛けることはほとんどありませんでした。外人の巨漢レスラーへのフィニッシュは、多くはエルボー、エルボー、ローリングエルボー。少なくとも全盛期の三沢たちには、身体的リスクと試合の熱狂をハンドリングするだけの力量と神通力があったはずです。
しかし、社長業にウェイトを移し始めてからの三沢には、当時ほどの絶対的な安心感はありませんでした。誰の目にも明らかなコンディション不良と疲労の蓄積。それでも経営者だからこそ、日本テレビがテレビ中継から撤退し、故障者と不調者の寄せ集めのような状態の今のノアでは、“レスラー三沢光晴”を欠かすことはできなかったのでしょう。
かつて僕は、JWP女子プロレスのファンでした。ですから97年にプラム麻里子(06/16/3:30プラム選手の漢字訂正しました)選手が亡くなった時に、パソコン通信などで「プロレスはこのままでいいの?」と疑問を提起して、帰ってきた男子プロレスファンから透けて見える「女子の出来事だから」という他人ごと感に絶望したものでした。しかし、何度も立ち止まるタイミングはあったはずなんです。福田選手の死。ブラック・タイガーことエディ・ゲレロの死。後藤達俊のバックドロップで馳が死にかけたのを、僕らは武勇伝のように聞いていたけれど、あれだって本質は変わらない。
それでも僕らは2.9プロレスを、過激化する必殺技の数々に喝采を上げ続けていました。だから、今回の事故の“責任”は技をかけた選手だけでなく、選手を取り巻く業界や、ファンたち全員にもあるのだということを忘れないでおきたいです。
だけど、その上で。倫理的に僕らは間違っていたのかもしれないし、これからプロレスは変化を余儀なくされるかもしれないけれど。
何千回と危険な技をかけ、何万回と危険な技をかけられ続けた三沢光晴のプロレスは、美しかった。明るく、楽しく、激しくというプロレスを誰よりも体現していた三沢光晴は、本当にかっこよかった。みっともない社長腹で、リングに上がり続ける三沢光晴が見たかった。
数年前に最後にノアを生観戦したのがいつだったかはっきりとは思い出せない、そんな元プロレスファンですが。僕は三沢光晴のプロレスを忘れません。僕の10代の頃のヒーローは貴方でした。ありがとう。
ゾっとしました。なんとなく、“壊れる”という予感しかしない潰し方だったから。試合後、府立の裏口に救急車が到着し、僕と友人は居てもたってもいられずそちらに走りました。三沢にもしものことが……と思ったからです。ところが、その日運ばれていったのは、勝ったはずの川田。実は試合中に川田は右腕尺骨を骨折していたといいます。その後、駅に向かう途中のホテルのロビーで談笑する三沢の姿を見て、やっぱり三沢は不死身だと僕らは笑っていました。しかしそれぐらいギリギリのところで試合は行われていたのです。
* * *
僕は、全日本プロレスを馬鹿にしていた時期がありました。猪木が先頭に立つ新日本プロレスの刺激的な雰囲気に比べて、全日は鈍重な相撲取りがもたもたした試合をしている団体、ガイジンはすごいけど……そんな偏見(と一面の事実)があったのです。それを変えてくれたのが、若き日の二代目タイガーであり、ハンセンに立ち向かう小橋の姿でした。
90年代中ばから2000年を少し回る頃まで。全日本プロレスと全日本女子プロレス、2つの“ALL JAPAN”が、確かに日本一面白い格闘スポーツだった時期があったと、僕は思っています。エンターテイメントと闘いを両立したプロレスの、ひとつの到達点がそこにあったと。これから、有識者によって技の危険がクローズアップされるでしょう。しかし、四天王プロレスの発明は、頭から落とす危険な技ではありません。あらゆる技の存在を可能にする、美しく、地道な“受け”です。三沢なら、小橋なら絶対に受け切る。それだけのゆるぎない信頼と技術が彼らにはあったのです。
頭部から落とす危険な技の代名詞である三沢の“タイガードライバー91”ですが、彼がこの技を(多くは受けが未熟な)外国人レスラーに仕掛けることはほとんどありませんでした。外人の巨漢レスラーへのフィニッシュは、多くはエルボー、エルボー、ローリングエルボー。少なくとも全盛期の三沢たちには、身体的リスクと試合の熱狂をハンドリングするだけの力量と神通力があったはずです。
しかし、社長業にウェイトを移し始めてからの三沢には、当時ほどの絶対的な安心感はありませんでした。誰の目にも明らかなコンディション不良と疲労の蓄積。それでも経営者だからこそ、日本テレビがテレビ中継から撤退し、故障者と不調者の寄せ集めのような状態の今のノアでは、“レスラー三沢光晴”を欠かすことはできなかったのでしょう。
かつて僕は、JWP女子プロレスのファンでした。ですから97年にプラム麻里子(06/16/3:30プラム選手の漢字訂正しました)選手が亡くなった時に、パソコン通信などで「プロレスはこのままでいいの?」と疑問を提起して、帰ってきた男子プロレスファンから透けて見える「女子の出来事だから」という他人ごと感に絶望したものでした。しかし、何度も立ち止まるタイミングはあったはずなんです。福田選手の死。ブラック・タイガーことエディ・ゲレロの死。後藤達俊のバックドロップで馳が死にかけたのを、僕らは武勇伝のように聞いていたけれど、あれだって本質は変わらない。
それでも僕らは2.9プロレスを、過激化する必殺技の数々に喝采を上げ続けていました。だから、今回の事故の“責任”は技をかけた選手だけでなく、選手を取り巻く業界や、ファンたち全員にもあるのだということを忘れないでおきたいです。
だけど、その上で。倫理的に僕らは間違っていたのかもしれないし、これからプロレスは変化を余儀なくされるかもしれないけれど。
何千回と危険な技をかけ、何万回と危険な技をかけられ続けた三沢光晴のプロレスは、美しかった。明るく、楽しく、激しくというプロレスを誰よりも体現していた三沢光晴は、本当にかっこよかった。みっともない社長腹で、リングに上がり続ける三沢光晴が見たかった。
数年前に最後にノアを生観戦したのがいつだったかはっきりとは思い出せない、そんな元プロレスファンですが。僕は三沢光晴のプロレスを忘れません。僕の10代の頃のヒーローは貴方でした。ありがとう。
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今はそれしか言えません。
それから、細かいことだけど、プラム「麻里子」ですよね。