今日は劇場版『天元突破グレンラガン』のオールナイト上映を見てきました。劇場版の紅蓮篇を上映後、今西監督や脚本の中島かずきさんらのトークショーを挟み、螺巌篇を上映するというぜいたくな内容です。個人的には結構接点のある作品で、2006年7月に帝国ホテルで「ガイナックスの新作発表会見がある」と言われて取材して、「なんかすごそうですよグレンラガン」とテンションあがって編集部に報告した覚えがあります。それまでのガイナックスの顔と言うべき人たちがそれほど参加しないこともあり、なんか新しいものが始まるぞって予感があったんですね。
その後はテレビシリーズのアフレコを取材させてもらったり、『灼眼のシャナ』だったかな? のアフレコ取材に行ったら、隣のスタジオで紅蓮篇のアフレコをやってたり。個人的に割と縁のある作品で、テレビシリーズも楽しんでいたので、その集大成ともいえるオールナイトイベントに参加できたのは感慨深いものがありました。あ、取材じゃないです、チケット買っていきました(笑)。ネタばれは都市部での公開が落ちつくまでは避けようと思います。作品としてのまとまりは紅蓮篇の方が上というか、螺巌篇はなんと言うんでしょう。いざ見終わってもさっぱりわかんないし、納得もできないんだけど、なんだかわからないが感動して心晴れやか、とでも言うんでしょうか。膨大な熱さと勢いでねじ伏せられたようでなんだか癪なんですが、とても楽しかったです。
螺巌篇にはカミナは回想的なシーン以外では登場しないわけですが、観ている間、やはり感じるのはカミナの不在で。『グレンラガン』という作品自体、カミナ=西さんという個人が持つポテンシャル・熱さ・説得力が背骨にあって、その熱を受け継ぎ、背負って歩くシモンの成長物語なわけです。ただ、熱量を要求する場面では、そのカミナに負けない熱をシモン=柿原さんが放たないといけないわけで。その無茶な要求に答えるべく苦悶し、叫ぶ柿原さんの演技自体が、作品中となんだかシンクロして感じられて面白かったです。
で、熱さというものでの説得力という意味ではね。登場時のポジションを思えば、最終的になんでそこにヴィラルがいるのよ、というアレは当然あるのですが……魂込めて叫び、吼え、貫くクライマックスに、檜山修之が真ん中あたりにいないことはありえないだろうと(笑)。小西さんにしても檜山さんにしてもそうですが、物語そのものもゆさぶるほどの役者のパワーというものをありありと感じさせられました。
劇場版の感想をネタばれなしで総括すると、キヤル脇かわいいよキヤル、やっぱりいろんなところに『エヴァ』であり、『トップ』を感じて、これはもうガイナックスの遺伝子なんだろうなと。そして制作陣も観る側である我々も、初代『トップをねらえ』の呪縛というものからは逃れられないかなということを感じました。グレンラガンの感動的なエンディングを見ていても、心のどこかで“オカエリナサイ”と比べている自分がいるんですね。やっぱりあのラストを含めた『トップをねらえ』という作品は、ずるいですよ。だって最初なんだもの。トップ2もグレンラガンも、根本的な要素ってのはトップの中に内包されて、最初に最高のラストに至る物語構成ってものが完成されてしまってる。絵柄や技術がどれだけ進歩しても、記憶の中にいる20年前の天才たちにはかなわないわけです。これはきついですよ。
ただ、では『トップ2』や『グレンラガン』が『トップ』の劣化コピーにすぎないのかと言えば、そんなことはなくて。過去の作品に向き合ってぶち当たっていった結果・爪痕というものは、たしかにフィルムの上に残っていると思うのです。表現としては一周二周して戻ってきてる部分はあるのだろうけど、きっとその中には一歩二歩と昇っている面があるはずで。それがグレンラガンというドリルの残した爪痕なんだろうなと思うのです。
最初に戻って、娯楽作品として完成されていた紅蓮篇に比べると、螺巌篇は風呂敷の広げ方も畳み方ももう無茶苦茶なのですが、そこを勢いで突っ切れるところが若さだな、いいよなと改めて思った上映でした。ラスト前のシーンで、逃げなかったのもよかったと思います。そして、こまごました考証だの設定だの整合性だのというものは、結構役者の魂こもった叫びで吹き飛ばされてしまうものだなーと、納得してしまった次第です。アンチスパイラル役の上川隆也さんも、いい意味で異質で重厚で物語での位置づけにマッチしていて、往年のキャラメルボックスファンとしては非常にうれしかったです。
まだ見ていない人は、紅蓮篇をDVDで予習してから、ぜひ一度劇場に足を運んでほしいと思います。自分ではなんだかよくわからない感動のツボを押される経験というのはなかなかに新鮮で楽しいものなので、ぜひ劇場で体験してみてほしいなと思いました。
その後はテレビシリーズのアフレコを取材させてもらったり、『灼眼のシャナ』だったかな? のアフレコ取材に行ったら、隣のスタジオで紅蓮篇のアフレコをやってたり。個人的に割と縁のある作品で、テレビシリーズも楽しんでいたので、その集大成ともいえるオールナイトイベントに参加できたのは感慨深いものがありました。あ、取材じゃないです、チケット買っていきました(笑)。ネタばれは都市部での公開が落ちつくまでは避けようと思います。作品としてのまとまりは紅蓮篇の方が上というか、螺巌篇はなんと言うんでしょう。いざ見終わってもさっぱりわかんないし、納得もできないんだけど、なんだかわからないが感動して心晴れやか、とでも言うんでしょうか。膨大な熱さと勢いでねじ伏せられたようでなんだか癪なんですが、とても楽しかったです。
螺巌篇にはカミナは回想的なシーン以外では登場しないわけですが、観ている間、やはり感じるのはカミナの不在で。『グレンラガン』という作品自体、カミナ=西さんという個人が持つポテンシャル・熱さ・説得力が背骨にあって、その熱を受け継ぎ、背負って歩くシモンの成長物語なわけです。ただ、熱量を要求する場面では、そのカミナに負けない熱をシモン=柿原さんが放たないといけないわけで。その無茶な要求に答えるべく苦悶し、叫ぶ柿原さんの演技自体が、作品中となんだかシンクロして感じられて面白かったです。
で、熱さというものでの説得力という意味ではね。登場時のポジションを思えば、最終的になんでそこにヴィラルがいるのよ、というアレは当然あるのですが……魂込めて叫び、吼え、貫くクライマックスに、檜山修之が真ん中あたりにいないことはありえないだろうと(笑)。小西さんにしても檜山さんにしてもそうですが、物語そのものもゆさぶるほどの役者のパワーというものをありありと感じさせられました。
劇場版の感想をネタばれなしで総括すると、
ただ、では『トップ2』や『グレンラガン』が『トップ』の劣化コピーにすぎないのかと言えば、そんなことはなくて。過去の作品に向き合ってぶち当たっていった結果・爪痕というものは、たしかにフィルムの上に残っていると思うのです。表現としては一周二周して戻ってきてる部分はあるのだろうけど、きっとその中には一歩二歩と昇っている面があるはずで。それがグレンラガンというドリルの残した爪痕なんだろうなと思うのです。
最初に戻って、娯楽作品として完成されていた紅蓮篇に比べると、螺巌篇は風呂敷の広げ方も畳み方ももう無茶苦茶なのですが、そこを勢いで突っ切れるところが若さだな、いいよなと改めて思った上映でした。ラスト前のシーンで、逃げなかったのもよかったと思います。そして、こまごました考証だの設定だの整合性だのというものは、結構役者の魂こもった叫びで吹き飛ばされてしまうものだなーと、納得してしまった次第です。アンチスパイラル役の上川隆也さんも、いい意味で異質で重厚で物語での位置づけにマッチしていて、往年のキャラメルボックスファンとしては非常にうれしかったです。
まだ見ていない人は、紅蓮篇をDVDで予習してから、ぜひ一度劇場に足を運んでほしいと思います。自分ではなんだかよくわからない感動のツボを押される経験というのはなかなかに新鮮で楽しいものなので、ぜひ劇場で体験してみてほしいなと思いました。
PR
トラックバック
トラックバックURL:
小西さん、では。